ベルリンの壁で誤解されてそうなこと pic.twitter.com/QVmDjMYzVd
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 3, 2020
壁の構造は時期や場所によって異なり、全期間この図の通りだった訳ではありません。が、映像等からイメージされる崩壊当時の構造はだいたいこれだったはずです。
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 3, 2020
「ベルリンの壁には地雷があった」とよく言われてますけど、根拠文献を見たことがない。「ベルリンの壁の物語」に列挙された死亡経緯もほぼ射殺例だし、なかったんじゃないか。https://t.co/NAi1VASQKJ
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 4, 2020
東独当局は西側地区はもちろん、境界線に触れることすらできないので、その内側に壁をつくったんですな
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 3, 2020
よく引用される図ですが、東西国境に何もなかったということはなく1952年から鉄条網その他で厳重に封鎖されていました。自動発砲装置の設置もベルリンでなくこちら。西独も再軍備前から軍隊建制の国境警備隊を置いて厳重に警備しています。 pic.twitter.com/tKbT3BenKw
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 4, 2020
その一方でベルリンは共同占領の建前から東西間の障壁が全くなく、東独国民は西ベルリンを経由して西独に移住できてしまうため、人口流出が止まらなくなっていました。東独当局はソ連の同意を得た上で、1961年8月13日午前1時30分に東西ベルリン間の通行を遮断。初代壁の建築に着手したのでした。
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 4, 2020
連合国軍人は協定でベルリン全域の自由立入が認められている(全ベルリン市は連合国共同占領が建前)ので、IDを見せる必要すらなく自由に東側へ出入りできました。外国人は出入国手続をすれば、西側住民は許可を得れば東側に入れました。
— すいっぴ (@Suippi_Sltd) October 3, 2020