教科書には右半分しか載ってないけど、これが全容です。
侍に立ち向かっている兵は江戸時代頃に描き足されたものです。逃げ惑う兵は最初に描かれたもの。
元寇では日本が負けていた、神風のおかげで勝てたと言われていますが、実際は日本の侍が強くて普通にモンゴル軍とやりあえていたとされています。 pic.twitter.com/Qj8z8TMafM— ふわふわ?? (@rei5884007) July 17, 2020
ここから鎌倉武士コピペ
元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた— 木枯しきうり (@hanbei6969) July 18, 2020
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた— 木枯しきうり (@hanbei6969) July 18, 2020
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺— 木枯しきうり (@hanbei6969) July 18, 2020
博多の住吉神社にある鎌倉時代の博多湾周辺の古地図(下が北) pic.twitter.com/5wOrdwsA0M
— G-quad (@Crane_MolTech) July 18, 2020
オマケに日本の武士は重甲冑に身を包んでるから弓矢もあんまり効かないわ、鎧が役に立たない日本刀を持ってるし…。
— Uhauha (@7G9B7uWE8PUgzTW) July 18, 2020
元軍は、日本の弓矢の長射程と高威力にも驚いているみたいです
和矢は射程が長く威力も高いため、鎧も盾も貫通して怖かった、とあります
蒙古襲来絵詞にもよくよく見ると、矢が盾を貫通して敵兵が倒れている描写もあります pic.twitter.com/X3JVSac91T— 鉄の男 (@nighthawkf117aj) July 18, 2020
現代の合成弓は20kgの力があれば充分引けるが、その昔は3人がかりで弦を張った弓もあるという。また握りの上下でこうも長さが違う弓を操るのは日本人だけ。馬上から目の前の敵を射る短弓とは違い、長距離戦に特化した超長弓が和弓です。弓に合わせ矢も長いため飛翔が安定し長距離でも的を貫通します。
— 一四○字 (@Hyakuyonjuji) July 18, 2020
昔の日本人は
特有の食生活とそれに
特化した身体故
小柄なのに
剛力招来でしたので写真残ってる時代の
女性たちでさえコレなので鎌倉武士たるや
いかばかりか因みに300kgです pic.twitter.com/X9b7yQmkTg
— ユンユン@伸びるゆんゆん (@Furmin2Yuusuke) July 18, 2020
元側の記録によると
・鎧着てるのに音もなく泳いでくる
・怖がらせる為に、鎌倉武士の隊長クラスの首をかかげたら、それを取り返すべく攻撃された
・船に牛の死体を投げ込まれ、衛生環境が一気に悪化し病気が蔓延
・日本の弓矢はおかしい!射程長いし鎧も盾もサクサク貫く!
etc鎌倉武士がおかしい
— 鉄の男 (@nighthawkf117aj) July 18, 2020
記録によると「日本軍(鎌倉武士)は夜襲しまくり、相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ込まれた」とあります
鎌倉武士団は夜襲しまくり、攻撃したついでに投げ入れた、のでしょうね pic.twitter.com/jVheXLHPUw— 鉄の男 (@nighthawkf117aj) July 18, 2020
捕虜を盾にして船に縛り付けたら全く気にせずノータイムで矢の雨振らせてきた島国の蛮族も追加でオナシャス。おおよそ勝つ為に思いつく事全部やってる感じですね。
— 綿100%@左道雪風 (@men_100) July 18, 2020
正直、元寇は武士が負けたけど神風で勝ったと習っていた頃にテレビの「その時歴史が動いた」だったか「プロジェクトX」だったかうろ覚えですが、最初は苦戦したけど二度目は万全の体制で迎撃して圧勝したという話を見たのが、今までの元寇を疑う初でしたな。
— yotiyoti (@yoti4423yoti) July 18, 2020
つーか、一回目も「苦戦したのは午前中だけで、午後から半日で完勝して元軍は潰走、補給物資の全てを日本軍に奪われて海上へ撤退」してるハズですねー( ???? )
— ぱなすまきあ (@panasmakhia) July 18, 2020
教科書で教えられてるほど侍たちは弱く無かったけど、このリプ欄で盛り上がってるほど強くも無かった
1回目の襲撃では、元寇相手に国内で主流だった礼式重視な合戦をやろうとして痛い目見てるんだよ
神風で1日で撤退したって話も嘘で、1週間くらい戦いは続いた
— れらぽ (@rerumpostalter) July 18, 2020
対馬も壱岐も陥落して苦戦したけど、大宰府まで攻め込まれた時には善戦して、元寇を撤退させたんだよ
んで、嵐が全く起きなかったという話もまた神風と同じくらい嘘で、寒冷前線によってそれなりに海が荒れたと考えられてる
互角に戦う侍と冬の時化た海で、総合的に不利だから元寇は撤退した
— れらぽ (@rerumpostalter) July 18, 2020
2回目の時には、1回目の教訓から事前に石で博多湾沿岸に防塁を築いて、防衛準備が整った状態で迎え撃つことに成功
元寇は上陸できず、全ては鎌倉幕府のシナリオ通りに事が運んだ
なお対馬と壱岐は2回ともボロクソにされた(2回目の時は最初から見捨てられた)
— れらぽ (@rerumpostalter) July 18, 2020
冬の玄界灘はクソみたいに荒れるので、現在の進歩した形状の船でも相当揺れるし波をかぶる
技術的に未熟な元寇船なら沈んでも不思議じゃないhttps://t.co/dZ9OB590N8
— れらぽ (@rerumpostalter) July 18, 2020
印象操作をしたのは当時の武士達ですね。
武士「たいして苦労しなかったけど、苦戦したと報告しないと手柄がもらえないから、大袈裟に報告した」
幕府「鎌倉武士強すぎて普通に勝ったけど、手柄認めたら褒美与えないといけないから台風のおかげってことにしとこ」
って感じ
— らんるー (@AAfbw) July 18, 2020
ちなみに蒙古軍も国に帰って、「負けたのは台風のせいだ!」と報告したようです
— らんるー (@AAfbw) July 18, 2020
その後の多くの書物には、戦敗し敗走中に嵐に遭ったと書かれています
— らんるー (@AAfbw) July 18, 2020
食糧調達のために略奪予定だった街を、既に鎌倉武士団が略奪してた
馬の腐乱死体や糞尿爆弾投げつけられて疫病や破傷風が蔓延した
海岸沿い数十キロにわたって堤防を築いて準備して、わざと台風が来るまで上陸させなかったという背景もありますね
— らんるー (@AAfbw) July 18, 2020
実際に当時の合戦においても、一騎討打ちの記録は残っていないようです
当時の武士は騎兵による集団戦術を使っていました
馬上から長弓で遠くの敵を射抜いていましたからね pic.twitter.com/vsiyiOg322— 鉄の男 (@nighthawkf117aj) July 18, 2020