僕は、机の上の置き時計をぼう然と眺めていた
2009年5月31日、23時59分
今月が終わるまで残された時間は、あと1分
目の前には果てしなく大きな闇に包まれた壁が迫っていた
「~のような気がする」という比喩表現ではなく、その闇の壁は、僕の肉眼にはっきりと映っていた
またしても、僕はチャンスを失ってしまった
それも、今回は最後のチャンスだったのに
いつも、何ひとつ自分にケジメをつけることのできないダメな人間
それが僕だった
毎月引き落とされる生命保険料が、今月は払えないとわかったのは、6日前の5月25日
ATMで表示された口座の残高は、14円
その日の朝に振り込まれたバイト料は、滞納していた光熱費の支払いや、家族の数日分の食費で瞬く間に消えていた
安易な脱サラ
それが、僕の人生が転げ落ち始めた失敗の要因
10年間勤めた会社を辞め、コンビニの見習いアルバイト店員として、深夜に時給850円
ひと月にどんなに働いても、12万円を稼ぐのがやっと
7000万円の借金を抱えていた僕にとっては、焼け石に水だった
借金返済の催促に精神的にも追い込まれていた
この地球上に、誰も自分のことを理解してくれるヤツなんていない
そう思っていた
孤独だった
誰からも生きていることを歓迎されていない自分
生きているだけで迷惑な存在
このまま生き続けても、誰の役にも立てない、誰からも愛されない存在
「このまま生き恥をさらすのはご免だ」
生まれてから今日まで、自分なりに必死に努力したつもりだ
頑張れないなりに、頑張った
頑張れる自分になろうと、懸命に頑張った
他人に迷惑をかけない自分になろうと、必死に頑張った
誰かに喜ばれる存在になりたくて頑張ってきた
でも、どうにもならなかった
もう十分に、もがいた
自分は一体、何のために生まれてきたんだろう?
誰かに迷惑をかけるために生まれてきたのか?
愛する子どもたちを不幸にするために生まれてきたのか?
僕が生きて、幸せになろうとすればするほど、まわりの誰かが不幸に巻き込まれていく
僕が望んでいる幸せはどんどん遠のいて
「なんでだ?なんでだ?なんで俺ばかりがこうなるんだ?」
と、人生を恨むようになっていった
結局、自分には生きる価値なんてなかったんだ
だったら、いっそのこと生まれてこなければよかったのに……
僕が最後に見つけた、自分自身の存在意義を守る手段は「死亡保険金」だった
自分が死ねば、家族にお金を残せる
家族を路頭に迷わせることもなくなる
最後の最後に、父親らしいことを1つだけ、してあげられる
そのための手段が、「死」だったのだ
「これで子どもたちの人生を守れる!」
残された唯一の手段として見えた一筋の光
その光が差したとき、僕はこの上なく満たされた気分に包まれた
最後に一度だけ勇気をふりしぼることができれば、僕が負っている借金を返しても、当面の生活費として、少しばかりのお金が家族の手元に残る
それだけのお金が、保険会社から支払われる
僕はこの世から姿を消すが、家族の生活だけは守ることができる
そう思うと嬉しくて嬉しくて仕方なかった
そして、そのアイデアを実行に移すべく、僕は今日を自分にとっての最後の1日と決め、残された時間を過ごすことにした
最後の1日にやるべきことは明確だった
昼間のうちに自分の死に場所を探し、首を吊る縄跳びと遺書を書くための便菱を買った
いつも通りの時間に、子どもたちを保育園に迎えに行き、手をつないで一緒に帰った
いつもと同じ景色、子どもたちの声、手の感触が、これまでの毎日と重なった
保育園から自宅に向かうまでのあいだに踏み切りがある
その踏み切りを通るときは、いったん脇に立ち止まり、1本だけ電車を見送ってから渡るというのが、子どもたちとの約束事だった
「カンカンカン」と警音が鳴り、ランプを点滅させて、遮断機がゆっくりと下りてくる
「来るぞ、来るぞ!」と僕が言うと、子どもたちは目をキラキラさせて、左右の線路の先をきょろきょろと覗き込む
電車がどちらから来るかわからないからだ
すると、あっという間に猛スピードの電車が、ガタンゴトン!と大きな音を立てながら目の前を走り去る
昨日も、おとといも、先週も先月も去年の今ごろも、子どもたちと、こうしてこの場所で通りすぎる電車を見送ってきた
「今日まで何ひとつ、いいことなんてないポロポロの人生だと思っていたけど、俺はずっと幸せの中にいたんだ…」
自宅が近づくと、上の子と下の子で、どっちが鍵を開けるかで言い争っている
こんな光景を見るのも、今日が最後なんだと思うと、また子どもたちに感謝せずにはいられなかった
子どもたちと夕食を一緒にとることも、一緒に風呂に入り、テレビを見ることも、些細なことで兄妹ゲンカが始まって仲裁に入ることも、一つひとつの日常が今日で最後
明日には、自分はもう、ここにはいないのだ
この子たちの笑顔のために、僕は死ぬ
そうすれば、父親として、男として、この世に生を受けた意義を果たすことができる
自分に残された道は、もうこれしかないのだと何度も言い聞かせた
子どもたちを寝かしつけたあと、最後にもう一度だけ、子どもたちの寝顔を眺めて、僕は改めて決意を固めた
それから、納戸を改造してこしらえた自分の書斎に戻った
子どもたちに、なにか書き遺さなければならなかった
彼らがいつか、僕と同じように人生に行き詰まったとき、僕はもうアドバイスをしてあげることもできない
父親として子どもたちに遺せる最後のメッセージを書き始めた
それは、「あきらめるな」という言葉に終始していた
「あきらめさえしなければ人生は必ず好転する。パパが約束する。だから絶対にあきらめるな」
「人生は振り子だ。マイナスに振れた分だけプラスが約束されている。だから、絶対に途中であきらめたらダメだよ」
「今は何もできなくていい。人より劣っていてもいい。どんなに人に迷惑をかけてしまっていてもいい。それでも、自分の未来まであきらめてしまう必要はないからね」
子どもたちが成人して、今の僕と同じように悩むときが来たら、これを読んで、ふっと上を向けるように
そう願って、ペンを走らせた
しかし、何度書き直しても、納得のいく手紙にはならなかった
どんなに言葉を尽くしても、それで子どもたちを救ってあげられるとは思えなかった
それもそのはずだった
そのメッセージを書いている本人が、自らの人生をあきらめようとしていたのだから
「こんな手紙ではダメだ」と、何度も何度も書き直しているうちに、時計はいつのまにか深夜1時57分を示していた
ブーン、ブーン、と手元に置いてあった携帯電話のバイブレーションが鳴った
母からの電話だった
独立に失敗し、生活が困窮していることがバレて心配かけないよう、半年のあいだ、母には一度も連絡をとっていなかった
「最期にひと言だけでもお礼を伝えなければ…」と思い、電話に出た
「あんた、何かあったとね?」
それが母の第一声だった
なぜか無性に僕のことが気になって、深夜であるにもかかわらず電話したのだそうだ
孤独でつらいこと
子どもたちを守りたいこと
誰にも相談できないでいたこと
借金を返すあてが何もないこと
これから僕がやろうとしていることだけは伝えず、ずっと抱えてきた悩みを母に打ち明けた
僕がいる東京と、母がいる長崎
1000km以上の距離を隔てた深夜の電話
母からしてみると、息子の命をつなげる手段は、この声を届けている電波だけだったのだろう
受話器の向こうで、母は命がけで僕の話を聞いていたのだと思う
僕のひと言ひと言に「聞いてるよ、聞いてるよ」と言うかわりに、ただ「うん」「うん」と微かな声で相づちを返してくれた
そうして、ひと通り話し終えて電話を切ろうとした僕に、母は言った
「最後にお母さんもひと言だけよかね?
あんたにとって子どもたちは、命に代えても守らんぱいかん存在やろう
だけん、あんたはいざとなったら自分の命ば犠牲にしてでも、子どもたちば守ろうとするやろ?
それが親やけんね
だけん、あんたがこの電話を切ったあとにしようとしよることは、100パーセント正しかよ
でもね、これだけは忘れんでくれんね
あんたが今、命をかけて守ろうとしよる子どもは、お母さんにとっては、あんたやけんね
お母さんもあんたと同じように、いざとなったら命ばかけてでも守らんぱいかん子どもが、あんたよ
だけん、あんたが死のうとするときは、お母さんはどがん手ば使ってでも、あんたば守るとやけんね
あんたは、お母さんが絶対に死なせんけん
何が何でも守ってみせるとやけんね
これだけは忘れんでくれんね
今からお母さんが言うことは、あんたには、できんってことはようわかっとる
でも、お母さんの一方通行の思いとして、受け入れんでもいいけん、受けとるだけ受けとっといて
死ぬぐらいやったら、嫁も捨てていい、孫たちも捨てていい、あんただけでも長崎に戻ってきてほしい
それがお母さんの正直な気持ち
よかね?
あんたも親父やけん、今こそ歯食いしばって頑張らんばいかんとよ
父親のその姿ば、子どもたちは見とっとやけんね」