事件の被害者の報道を控えるべき

森博嗣堂 浮遊書店「店主の雑駁」より
 20年もまえから再三再四書いてきたことを繰り返します。
 無差別、大量と見出しにつくような悲惨な殺人事件が起こったときに、マスコミは被害者の名前や写真を公開し、その人生を描こうとします。ほとんど、被害者を晒し者にしている様相です。「見たい」「知りたい」というだけの野次馬根性の極みというか、非常に下品に感じられます。加害者でさえ、限度を超えた情報公開は控えている現代において、被害者の情報は、よりいっそうコントロールをするべきではないでしょうか。
 そういった感情的なドラマに飛びつきたいのは、マスコミの古くからの習性です。「見たい人、知りたい人がいる。それを伝えるのが報道の使命」という綺麗な言い訳で、商売繁盛の名目を隠しています。涙を誘う報道がほしいから、被害者のことを探る、という「感動作り」にほかなりません。
 多くの異常な加害者は、被害者がどれくらい悲惨になり、どんなふうに可哀想になるかを知りたい。どれくらい社会が嘆き悲しむのかを見たい。それが、彼らの手応えなのです。その手応えのために卑劣な犯行を発想し、実行します。したがって、被害者を晒しものにするのは、犯罪者には願ったり叶ったりの行為といえ、まさに犯行の最後の仕上げを幇助しているようなものです。また、それらを見た潜在的な加害者を刺激し、将来同様の事件の再発につながる結果を導くと思われます。
 爆弾テロや銃乱射事件も、社会の動揺や泣き叫ぶ遺族が見たいから行われるものです。そういった「犯人側の成果」を詳細に報道することは、つぎつぎと同じような犯罪を誘発することにつながります。
 マスコミは、この点に気づいていると思います。でも、気づかない振りをして、つぎつぎと事件が起こった方が営業的には好ましい、と考えているのでしょうか。そう思われてもしかたがない愚行を、もういい加減にやめてほしい、と僕は願っています。