金閣寺・銀閣寺の住職が教える『人生は引き算で豊かになる』

禅語の中で特に有名なものの一つに「無事是貴人(ぶじこれきにん)」『臨済録』という言葉があります。

「無事」という言葉から、「平穏無事で何事もないのが一番」という意味合いに取られることも多いのですが、じつはここで言う「無事」とは、そいう意味ではありません。

言うなれば、「ただ、造作すること莫(なか)れ」ということであって、つまるところ「何もしない」という意味です。

つまり「仏の道を歩み、悟りを得るというのは、何もしないということだ」とこの言葉は説いているのです。

そう言われても、なかなかピンとこない人も多いでしょう。

たとえば、庭先にきれいな一輪の花が咲いていたとします。

そんな花を見つけると、花の美しさを際立たせようと周囲の草花を抜いてしまったり、逆に別の草木を植えてみたり、石を配して、いかにも趣深(おもむきふか)そうな演出をしたり、逆に証明を当てて鮮やかにライトアップしてみるなど、いろいろなことをしてしまう人がいます。

しかし、本来の美しさというのは、何もしない、ありのままの姿にこそある。

それが「無事是貴人」という言葉の教えなのです。

それは、人間性と言う意味においても同じではないでしょうか。

もともと仏教には「どんなもの、どんな人の中にも仏がある」という考えがあります。

あらゆる人、動物、植物にも仏の心が宿っているのです。

そのように初めから自分の中に仏の心があるというのに、自分の外側ばかり見て「仏の道を極めたい」「悟りを得たい」と奔走するのは、愚かなことです。

事実、日本の禅宗文学に一大金字塔を建立した白隠禅師も「遠く求むるはかなさよ」(遠くばかりを見ても、仕方ないのだよ)と述べています。

元来、あなたには「あなたなりの美しさ、すばらしさ」があるものです。

過度に着飾ったり、化粧をしたり、効果な持ち物を持たなくても、そのままのあなたで十分にすばらしい。

「いい大学を出た」「いい会社に入った」「お金持ちだ」「部長だ、専務だ、社長だ」と、いろいろな要素で自分を装飾しなくても、本当の魅力は「あるがままのあなた」にあるのです。

つまり、それが「何もしない」という生き方なのだと思います。

もちろん、「何もしない」というのは、怠惰な生活を送るという意味ではありません。

目の前の日常をありのままに受けとめて、淡々と、自然にまかせて、懸命に生きること。

「幸せになりたい」「満たされたい」と頑張るのではなく、あるがままのあなたとして淡々と生きることが大事なのです。

わび茶の完成者として知られる千利休は「叶うはよし、叶いたがるは悪し」と言っています。

「願いが叶うのはいいことだけれど、叶って欲しいと願うのはよくない」ということです。

もしかしたら、あなたにも夢や希望、願望があるかもしれません。

しかし、それは「求めるもの」ではありません。

淡々と、懸命に生きる中で「いつのまにか叶うもの」だと利休は言っているのです。

何かを求めるでもなく、自分を虚飾するのでもなく、ただ淡々と「何もしない」という生き方をする。

ぜひとも実践して欲しいものです。

http://ameblo.jp/hiroo117/より
小林正観さんは、「頼まれごとの人生」と、よく言う。

「頼まれごとの人生」とは、自ら、ああだ、こうだ、と画策したり動いたりするのではなく、人から頼まれたことをただ淡々とこなしていく、という生き方のこと。

人からの頼みを断ってばかりいる人は、やがて、人から頼まれなくなる。

人からよく頼まれる人は、あまりこだわりなく、気持ちよく引き受けてくれる人。

これを続けていると、大きな意志の力で自分が動かされているのがわかる。

それが、「使命」だと正観さんはいう。

ただひたすら一所懸命に、自分の目の前にきた仕事や頼まれごとを黙々とこなしていくこと。

定年後なにもすることがない、という人は、頼まれごとを引き受けてこなかった人。

若い頃から気持ちよく引き受けてきた人は、いくつになっても、あちこちから声がかかる。

「無事是貴人」の生き方を目指したい。