今日は、父の名が広島の原爆死没者名簿に記載されて5回目の8月6日。
今年も、当時17歳だった父が体験した記録を連ツイする。60歳でガンを発症した時に書いた自分史の1部に書かれていたものだ。
父の遺言が継承されますように。— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。その日は朝から快晴の暑い日であった。学校へ出勤して、自分の教室の窓を開けていたところ、まっ青な南の上空の山の上に「ピカッ」と閃光が走った。雨も降っていないのに稲妻が走るとは不思議なこともあるものだなあと話しながら、(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
訳の分からぬまま気にも止めていなかったが、数日してそれが広島に強力な特殊爆弾(原爆とは当時解っていなかった)を投下された閃光だったと解り、こんな山奥にも届く強烈な光だったのかと驚いたものだった。その日授業をしていたところ、上空に金属音の爆音を響かせながら、(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
双胴のロッキードというアメリカの偵察機二機とB29爆撃機が通り過ぎて行った。広島の爆撃機とは関係なかっただろうが、民意を撹乱するには十分のものがあり、いよいよ本土決戦間近かとずいぶん厭な思いをしたものだ。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
8月10日、いつものとおり授業をしていると、父が顔色を変えてやって来た。私に召集令状がきたという。粗末なピンク色のザラ紙に印刷されたものを持ってきている。来る12日に庄原実業高校に講堂へ出頭せよと言うものだ。(続く)
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いよいよ来たかと覚悟を決め、家に帰って身支度をし、眠れぬまま翌日家族の者や先生、子どもたちや近所の人々に見送られて入隊のため学校をたっていった。本来は、広島の第5師団に入隊するのが本筋であるが、原爆で壊滅しているため、急遽ここを集合地ときめたのだという。(続く)
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集まったメンバーは比婆郡西部で当時残っていた40歳以上の丙種合格者と我々18歳位の予備役の者だった。確か100人位だったと思うが比婆防衛隊という隊が編成され、I(注:自伝では実名)という少尉の小隊長、T(注:自伝では実名)という軍曹の分隊長に引率され汽車で広島に行き、(続く)
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原爆の後片付けをすることになった。一応兵隊であるため、陸軍2等兵の襟章のついた軍服と軍帽、ゲートル、軍靴それに竹の鞘の牛蒡剣や雑嚢などの支給を受けたが、銃は不足しているので支給しないということだった。(続く)
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後片付けに行くのになんで銃がいるのかと思ったが、聞けば敵軍がいつ広島に上陸するか解らないので必要だという。しかし渡せないので上がってくれば牛蒡剣で戦えと言う。これは心細いことになったと内心辟易したが仕方ない。(続く)
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その日は庄原実業の講堂で宿営し、翌日国鉄の汽車で広島に向かった。途中の駅で、無蓋の貨物列車とすれ違うたびに、身体中に真っ赤なアカチンを塗った兵隊や市民が満載され、うめきながら奥地(三次や庄原など)へ運ばれて行くのに出会った。(続く)
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その惨状を目の当たりにして、これは大変なことになっているぞと、嫌と言うほど知らされてぞくぞくっと身震いを覚えたものだった。列車がすれ違う各駅各駅で、このような目を覆いたくなるような人たちが、ぎっしりと詰め込まれぞくぞくと送られてくる。(続く)
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広島に近づくにつれ、うだるような暑さが襲って来、人の焼ける臭い(いわしの腐ったのを焼くような)と建物や草木の焼ける臭いが交じりあって風に乗って鼻を突く。喩えようのない異臭に嘔吐を催しながら、矢賀駅に着いた。駅は見る影もなく吹っ飛び、(続く)
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周囲はすべて焼き尽くされて一望する範囲何も見当たらない。スピードをぐっと落としながら、徐々に広島駅に入っていった。駅のホームは屋根がすっかり飛ばされており、駅舎はすべて焼け焦げ、黒々とした残骸が不気味に立っていた。(続く)
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駅前に整列して、駐屯地へ出発することになったが、駅前周辺には、焼け出されて、真っ黒の顔に、ぼろぼろになった被服をまとい、虚ろな表情で座り込んだりうろついている人々や真っ裸で走り回る子どもたちがいっぱいいた。(続く)
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猿猴橋を渡り、稲荷橋を通って八丁堀に出たが、途中は見渡す限り焼け野原になっており、あちこちに、火傷を負って動けなくなりうずくまって、小さな声で水を欲しがっている人達がいた。(続く)
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八丁堀付近には、福屋(現在地の向かい側)や中国新聞社(現在三越百貨店)などのビルが真っ黒の残骸をとどめていた。紙屋町ではまだ電柱がくすぶっており、電車の焼けた残骸が醜く転がっていた。(続く)
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現在のそごう百貨店や県庁付近は、その当時広島西練兵場で、現在の広島市民球場(注:現在は跡地)のあたりに護国神社の鳥居が半分に折れて倒れていた。産業奨励館(現在の原爆ドーム)は赤茶けて立っていた。(続く)
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紙屋町を左に折れて、鷹野橋方面へ向かったが、途中に住友銀行や日本銀行の建物が黒く焼け焦げ突っ立っていた。国泰寺の楠の樹の根元が裂け、枝葉が電車軌道に散らばっており、それを避けながら歩いて大手町の国民学校(現在の大手町中学校)へ辿り着いた。(続く)
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此処が我々比婆防衛隊の駐屯本拠地である。早速持参の昼食を食べ、宿舎の設営にかかった。宿舎といっても材料がある訳ではなく、運動場にあった高鉄棒の鉄を棟に、付近の焦土から拾い集めた鉄材で屋根を作り、焼けたトタンで葺いて急造の宿舎を建て、砂場に荒むしろを敷いて寝るところを確保した。続
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此処へ来る途中の道路のアスファルトが熔けて軟らかくなり、歩くと軍靴の足跡がつく程の暑さであるから、この程度の設備で十分だ。近くにコンクリート製の防火用水の桶を集めて並べ、板を渡し、周囲にトタン板を立てて便所を作った。(続く)
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また、焼け残っていた五右衛門風呂を2つとドラム缶を拾ってきて、ご飯を炊いたり塩汁を作る炊事施設や入浴の為の風呂を作ったりして作業を終わった。周囲の異臭と今までに経験した事のない猛烈な暑さですっかり参り、殆ど食欲はない。(続く)
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それでも食べないわけにはいかないので、軍から配給された玄米をそのまま五右衛門風呂の釜に入れ、焼け残りの板切れを集めてご飯を炊いた。玄米を炊いた経験がないので、出来上がった飯はぼろぼろの固いものだった。普通ではとても食えたものではない。(続く)
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それにおかずとくれば何も無いから、川から獲ってきた「あおさ」という青海苔に似た草を入れた塩汁を作り、玄米飯にかけて無理矢理流し込んだ。知る人ぞ知る、例の広島の夕凪は、奥から出た者にはとても我慢ができない。(続く)
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午後10時を過手分けしてドラム缶の風呂を沸かし、どろどろに汚れた身体を洗い流し、裸の夕涼みをしたが、暗くなるにつけかの大群が襲い始めた。このことを軍も知っていたのか、蚊帳の割り当てがあって、狭いながらも我慢してもぐっていた。ぎると多少すずしくなったが、今度は激しい夕立。(続く)
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黒い雨だったのか急造の屋根はあちこちから雨漏りを始め、とても寝ている状態ではなかった。やっと雨が上がったが、無理に寝付こうとしてもなかなか寝付かれない。そのうち誰かが、「遠くの方で鬼火が飛んでいる」と言い出した。見ると、あちこちで「ボー」と青白い火がついては消えていく。(続く)
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それが点々とあちこち断続的に続くので、ちょうど火が飛んでいるように見える。とても幻想的で薄気味悪く、一瞬息を飲んで見つめていた。多くの人が一瞬にして非業の死を遂げた訳だから、その恨みをこの世にぶっつけているのだろうか。年寄りから聞いてはいたが、現実に見たのは初めてである。(続く)
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意識が錯乱して、ただ呆然と見続けるだけだった。後で皆と話したことであるが、この現象は定かではないが、雨が上がって、各所に散在する人骨の成分の一部である燐が何かの化学反応を起こし発光したのではないかと。また続けて遠くの空をオレンジ色の「火の玉」がゆっくりと横切って行ったのも見た。続
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よく聞いた話だが未だもって不思議でならない。とうとうまんじりともせず一夜を明かし、いよいよ復旧作業に当たることになった。起床して先ず便所に行った。汚い話をするようで恐縮だが、昨日食べた玄米飯は全く消化されず米粒のまま排泄されていた。(続く)
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厭だなあと思いながらもまた例の食事をしなければならない。他に食べるものがないのでその配給がなくなるまで数日間続いた。食事が終わり全員校庭に集合、小隊長から訓示があった。『本日から復旧作業に入るが、作業と班編成については後程指示する。もうひとつ皆にお願いすることがある。(続く)
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それは、敵軍がいつ広島に上陸してくるか解らない。そのために、今夜から歩哨についてくれ。』というものだった。『分担は後ほど発表するが、先ずやり方と心得として、この兵舎から100メートル離れた位置に1名立ち、(続く)
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そこを中心に30メートル以内を動きながら警戒せよ』と言う(これを動哨といった)。そして怪しい人影を発見すれば直ちに「誰か、誰か、誰か」と大声で3回誰何(すいか)して、3回目に何の応答も無ければ剣を抜いて突入し刺し殺せと言う。全く経験の無い我々にとってはびっくり仰天。(続く)
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でも、やらないわけにはいかない。分担が決まり、早速今夜、2人1組で1時間交代の勤務に就くことになった。真夜中の午前2時から3時までだという。覚悟を決めて作業に就く。記憶が定かでないが、確か第1日目は、宿舎のある大手町国民学校の周囲に巡らされていたコンクリートの塀が爆風で倒れ、続
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その下敷きとなった登校中の生徒を掘り起こし火葬せよというものだった。ツルハシという道具を持ってコンクリートを壊し、下で死んでいる遺体を引き出すのであるが、遺体の状況を喩えると、ちょうど蛙が車に轢かれてぺしゃんこになり、乾いてからからになったようになっていた。(続く)
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それが何人も何人もずらりと並んで下敷きになり死んでいる。皮膚や髪の毛は茶褐色に変色し、服は裂けて、骨が露出している者もおり異臭を放っていた。とても平常では見ておれない。目を覆いたくなる惨状であった。(続く)
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それを一人一人急造の担架に乗せ、臨時に作った火葬台(防火用水をためていたコンクリート製のものに焼けた鉄棒を縦横に並べたもの)に運び、その上に何十体も横たえて薪を置き、重油をかけて火をつけ荼毘に付した。兵隊の中に僧侶がいて、その人がつきっきりでお経を上げ弔いをしていた。(続く)
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確かその位置が、現在の平和公園の慰霊塚辺りではなかったかと思う。当時は被服の胸に必ず住所、氏名と血液型を記入した名札をつけるよう義務づけられていたので、屍体の全てがつけていた。今から思うと、その名前を全て記録しておけば遺族の方に連絡できたのにと悔やまれてならない。(続く)
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そのときはそうした思慮も消え果ててただただ屍体の処理でいっぱいだった。こうした作業をしているうちに、なんだか精神状態も変化して、無神経というか、恐ろしさも、死人に対するむごたらしさも、目にする焼け野原も、鼻を突く異臭も、不思議と感じなくなっていった。(続く)
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異常な神経の持ち主になっていたのではなかろうか。通常の思考力を失った、ただ作業をするだけの機械になっていたのではと反省している。幾体も幾体も焼いて(確か600柱位と聞いている)山のように積み上げた遺骨に合掌し作業を終えた。その遺骨がその後どのようになったか知る由もない。(続く)
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その日の作業を終わり就寝したが、今夜は歩哨当番である。その時間まで疲れてぐっすりと眠った。起こされて動硝の任務についた。懐中電灯を左手に、牛蒡剣に右手を添えて30メートルの範囲を恐る恐る歩く。何か「グサッ」と踏んだ。(続く)
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懐中電灯で照らして見ると、首と手足が白骨化し頭と胴体が焼け残った遺体の腹を踏んでいたのである。飛び上がるほど驚いた。思わず「南無阿弥陀仏」と手を合わせ、その場を離れた。真夜中の2時過ぎとはいえ、むしむしと暑い。ちょうど歩いて廻る範囲に市役所の建物が入っていた。(続く)
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薄暗い明かりの中に薄気味悪く黒々とつったっている。その前に差し掛かったとき、何か「ごそごそっ」と音がして人の気配がする。「すわっ敵襲」と覚悟して剣を抜いて身構え、「誰かっ」と叫んだ。何の応答も無い。「誰かっ」と2回目を怒鳴った。(続く)
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まだ黙っている。いよいよ3回目「誰かっ」と言って跳びつこうとしたら、蚊の泣くような声で「怪しい者ではございません」と答がかえってきた。「ああ日本人か」とほっと胸をなで下ろし、近寄って「どうしたんだ」と尋ねると、破れトタン板を被ったその下から女の人と子ども2人が顔を出して(続く)
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「私達はこの近所に住んでいたが焼け出され、主人は死に、やむなく市役所の中に寝ていたが、蚊が多く暑くてたまらないので、こうしてここに出ています」と言う。気の毒だがどうしてやることもできない。「気を付けて」と言い残してその場を去った。その人達はその後どうなったか。(続く)
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終戦の日の早朝の私の一齣である。(終戦のため次夜からの歩哨はなくなった。)8月15日、その日も暑い日だった。昨日の作業を続けていると、昼前になって全員校庭に集合せよという命令がきた。何事かと思い急いで帰ってみると、台の上に無線用の携帯ラジオが置かれ、(続く)
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小隊長から「正午から重大な放送があるから聴くように」という伝達があり、天皇陛下の玉音放送だという。みんな襟を正し、直立不動で聴き入ったが、音が大きくなったり小さくなったり、また雑音が入って途切れたり、ちょうど波が寄せたり引いたりするように所々がやっと聞き取れる程度で、(続く)
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内容は全く解らなかった。ただ雰囲気で戦争に負けたのだと悟った。小隊長から日本は無条件降伏したのだという意味の補足があり、みんなあ然として暫く声も出なかった。勝てると信じ、苦難を乗り越え、現に今も苦しい作業に挑戦しているではないか。(続く)
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急に力が抜け、そして明日からはどうなるのだという不安が胸を横切る。やがてみんながガヤガヤと騒ぎ始めた。その時小隊長から概略次のような訓示があったと記憶している。『諸君の動揺はよく分かる。小生自身も慚愧に堪えない。しかし現在はこの任務遂行中である。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
何らかの指令があるまで、このまま作業をつづけるように。』というようなことだったと思う。その日は休息を取り、指令を待つことになった。翌日からも作業を続けることになり、私達は福屋百貨店の屍体の処理を命じられた。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
場所は現在の東映の映画館がある付近(注:現在はパルコ、ドン.キホーテ八丁堀店)である。行ってみると地下の水道が破裂して地下1階が水で一杯になっており、そこに数人の屍が浮かんでいる。すっかり腐乱し、大きく膨れ上がっていて、男女の見分けもつかない。(続く)
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近くに引き寄せるのが大変だ。長い竿を探してきてその先に「鳶口」をつけ、屍体に打ち込み引き寄せようとするが、腐乱しているので引っかからない。仕方なく肋骨をめがけて打ち込み、やっと引き上げて急造の担架で昨日のところへ運び火葬した。上げるのに手間取って数体の処理で1日を終えた。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
確かこの日だったと思うが、日本銀行が初めて業務を再開し、金の支払いを始めるということになった。翌日我々に銀行内の死体の処理と地下の金庫から金を運び出すという作業の命令があった。行ってみると、1人の女の遺体がうつ伏せになって転がっていた。(続く)
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背中の被服はちぎれて吹っ飛び、着ていた縦縞のシャツの模様がくっきりと茶褐色に変色した肌に焼き付いていた。裏返してみると衣服が残っておりきれいな肌だった。ねんごろに火葬してあげた。大きな地下金庫から金を出す事になったが、金庫の扉が爆風で前に膨らんでいる。(続く)
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その時は別におかしいとは思わなかったが、普通爆風で押された場合、内側にへこむのが当たり前だが、外に出ている。後で聞いた所では、強い爆風のため一旦へこみ、また吸い出されて外へ曲がったのだということだった。(続く)
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誰がどのような方法で開けたかは知らないが、開いた中から10圓札が30万圓入った木箱を担いで1階へ上がり、行員に渡して支払いの準備をして貰った。このような大金をさわったのは、私の一生で子の時限りである。今の金にして3億円くらいではなかったか。(続く)
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ずっしりと重く肩にかかり貴重な体験であった。それから、まず市内の足を確保するためだったそうだが、電車軌道の電柱を立てる穴掘りを命ぜられた。私の掘ったのは、相生橋から紙屋町寄りに3つ、ちょうど原爆ドームの前である。(続く)
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今は作り替えられていてその柱はないが、「このあたりだった」と通るたびに思い出されて懐かしい。その他、中国新聞社(現在は三越百貨店)の片付けや、駅前から牛田方面への電灯をつけるため電線を引いて歩くなど、復興のためきつい作業を終戦後にかかわらずまじめにやったものだ。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
終戦になってから、年取った連中は要領が良くて、上官が自分の作業班にいないときは、いくら作業開始の命令はされていても作業は程々に。みんな二等兵のよしみから命令はそっちのけで、「(前述の通りの食事では)腹が空いてたまったものではないから、(続く)
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戦争には負けたのだし、先ず自分の身体が大事」だとこっそり抜け出して食べ物の調達に奔走していた。戦時中は、資力のある家は地下壕として穴を掘り、空襲に備えるとともに非常食や貴重品を入れて保管していた。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
たまたまこれを見つけてからはそこに目をつけて、それらしいところを焼土の中をかきまわして、魚肉や果物の缶詰、乾パンやうどんなど、その当時なかなか手に入らなかったものを探し出してきてそれを持ち帰り、みんなで分けて食べた。年寄りの才覚で大いに感謝した。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
私たちもそのお陰で、なんとか病気にもならず除隊までこぎつけたものだ。8月20日になって軍が解散することになり、全員その場で無罪放免となった。入隊の時支給された装具一式と毛布一組を貰い、汽車に乗って帰郷した。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
年寄り連中は、拾い集めた高価な皿や数々の品を毛布にくるんで持ち帰ったが、当時私にはそんな欲気はなく、焼けた鉄兜やサーベル(訓練用の指揮刀)みたいなあまり役に立たぬものを持って帰っていた。田舎にはあるかもしれない。帰ってからは、現職のままの出征だったため休む暇なく職場復帰であった。
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
嫌々勤務していたのが敗戦のため益々嫌になり、辞職を速めたように思う。今にして思うと、知らないこと程怖いことはない。原爆被災の影響が50年経った今もなお、身体を蝕み続け病気を発生させている。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
その当時、このことが解っていれば果たしてこのような作業に従事しただろうか。知らずに無理矢理やらされていたのだ。やるとしても、こんなやりかたではしなかったのではないか。今回の胃腫瘍は関係しているかもしれないが、運命だと諦め、(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
原爆手帳の交付のお陰で少ない経費で治療が出来るのがせめてもの慰め、その面では感謝している。いずれにせよ、今後こうした戦争、または放射能汚染による被害が起こるような事態は決してあってはならない。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
かわいい子どもや孫達、またその子どもたち、永遠に続く子孫達に私達のような経験は決してさせてはならないと思う。短い文章の中では被爆の実態はとても書ききれないが、受けた心の傷は今もずっしりと残っており、口には出さねど恨み続けたいと思っている。(続く)
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
どのように世代は代わろうとも、こうした事実は忘れることなく子々孫々にいたるまで語り継いで欲しい。これが私の願いである。私の人生の中の大きな大きな出来事の一つであったことに間違いない。」完
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
幸いにも、父は、手術が成功して一命をとりとめ、84歳まで生きた。東日本大震災の福島原発事故の時、「大変なことになったのう」と言ったまま黙っていた父。今年、私は体験記を書いた時の父と同じ年になった。父は、17歳の時にあの経験をしたのだと改めて自分の人生と重ね合わせている。
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
「どのように世代は代わろうとも、こうした事実は忘れることなく子々孫々にいたるまで語り継いで欲しい。これが私の願いである。私の人生の中の大きな大きな出来事の一つであったことに間違いない。」
この父の遺言。守り続けよう。私の人生が終る時まで。— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017
毎年8月6日に連ツイしてきた亡き父の被爆体験記。今年で5回目になるのですが、こんなに沢山の方に反応を頂いたのは初めてです。今も、どんどん通知を頂いているのですが、お一人お一人にお応えできませんので、この場をお借りしてお礼申し上げます。父の遺言を継承して頂き本当に有難うございます。
— つるや ことぶき (@turututukotokot) August 6, 2017