あと19分。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 5, 2016
あと8分。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 5, 2016
やはり思ってしまうのは、71年前のこの瞬間に即死されなかった方々のことだ。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 5, 2016
8月6日、広島へ急行した呉の消防隊は苦痛に呻く沢山の声の中で終日救援を行わなう。
だが、翌朝再訪したとき、広島は静まりかえっていた。— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 5, 2016
国泰寺の県立第二高女生徒たちの姿は、ちらっとだけだが描いた。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 5, 2016
空襲の危険性がある白中に全市の中等学校生徒を動員して野外で建物疎開の整頓作業をするのは無防備すぎる、と8月6日の作業動員に対して抵抗した学校もあった。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 5, 2016
爆音に空を見上げた人は、顔面に真正面から熱線を浴びることになってしまった。その熱は皮膚を浸透し、皮下脂肪を溶かすに至った。
たくさんの女学生、10代前半の女の子たちがそんな目に合わされた。— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
たくさんの絶望の姿。それは8時15分の一瞬のものではない。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
映像でよく描かれるように、その瞬間に瞬時に蒸発して消えて無くなってしまった人など誰もいなかったのではないかと思う。爆心直下の玄関先にいた方でも炭化したなきがらとして発見され、歯でその方だとわかったという。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
爆心から最も近く生存者を出した燃料会館(大正屋呉服店、レストハウス)でも、脱出直後には8人ほどいたという。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
多くの方々は、その瞬間を過ぎてから、苦痛と絶望にせめられながら命の火が尽きるのを待ったのかと思う。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
他所から救援に訪れた芸備銀行職員は、紙屋町の広島支店の生存者を広島城南の西練兵場で探していた。「おーい、芸備銀行誰かおらんか!」累々と居並ぶなきがらの間で手が上がった「・・・・ここにおります、生きております・・・・・」若い女子職員だった。それが7日朝のこと。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
6日、救援に訪れた呉市消防隊は無数のうめき声の中で作業した。翌朝それが静まり返ったのは、多くの方々が最初の一晩を越えられなかったから。6日朝から7日朝までにどれほどの人の上に何があったのだろうというのは、想像するに余りある。けれどなお思い描かなければならないことなのかもしれない。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
7月2日の夜間焼夷弾空襲で防火すべき市街を失った呉市消防隊の一部は、広島に移駐していた。中島本町で全焼したのは呉の消防車だった。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
午前8時14分、呉海軍警備隊中野探照灯台が敵機爆音聴取。それより早く、中国軍管区司令部の空襲警報発令が8時13分、2分で上流川のJOFKまで届いて、放送員(アナウンサー)が演奏所(スタジオ)のマイクの前に立ち、でも空襲警報は放送電波に乗らなかった。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
0806 松永監視哨は敵大型2機西北進中を発見
0809 同哨3機と訂正
0810 呉海軍区に警戒警報発令(広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等より呉鎮宛、敵大型3機が広島市方面に向かうとの電話連絡による)どんなに早くても10分前に空襲警報を出すことが出来ない。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
B-29の単機~少数機侵入では警報が鳴らなくなっていたか、というとそうではなく、実は前夜から少数機侵入での警報発令が繰り返されていて、広島県下の人々は眠らせてもらえなかった。直前最後の警報解除が7時31分。
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県立第二高女がいた国泰寺付近。鯉城通を拡幅中。白神社にも参拝者が多数いた。 pic.twitter.com/ogxf7SxNv5
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エノラゲイの尾部銃座は衝撃波を二波見てますね。一度目には直接やって来て機体を揺らしたもの。ニ波目は地表で反射したものが後下方から来る、と。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
被爆直後に、広島放送局が放送電波で大阪を読んでいる声を聞いたという、いわゆる「幻の声」は、原送信所が実際に放送していたのが確かめられてリアルとわかったのだけど、被爆直後の広島で相当数のラジオ(おそらく電池式)が生きていてスイッチが入っていたということでもあり。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
6日8時15分には呉付近(おそらく10kmくらい南方かも)にもB-29が1機飛行中だった。これは大阪に向かう偵察機型F-13だったのだが、そんなふうに単機・少数機侵入は日常茶飯になっていた。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016
広島城の陸軍中国軍管区司令部が防空警報発令能力を失ったのちも、呉海軍区(呉鎮)は独自に警報発令と解除を行い続けている。警戒警報や空襲警報んが鳴るのが当時の一般市民の日常なのならば、そんなふうに呉では日常が継続されていた。
— 片渕須直 (@katabuchi_sunao) August 6, 2016