1年に何人か、次のような質問をする人がいます。
「私の『本当の使命』は何でしょうか。本当の自分探しを20年やっているのですが、まだ『本当の使命』が見つかりません」
「あなたは、今、何をやっているのですか」
「主婦です」
「主婦なんですね。じゃあ、夫と子ども、まわりの家族に対してできることを、ただ淡々とやっていけばいいわけですよね。まずは、目の前のことをやる。目の前のことをやらないと、神様は上から見ていて、『家庭のこともちゃんとやれないのだから、ほかのことは任せられないよね』と思っているのかもしれませんよ」
パッと服を脱ぎ捨てて、突然、「スーパーマン」になることを夢見ている人が、世の中にはたくさんいます。
でも、「今とは違う別のところに、すごい役割やすごい能力が隠されていることは」は、残念ながらありません。
今、生きている「私」が、すでに「100点満点」なのだから、「今、やらされていること」を普通に淡々とやって、淡々と死ぬのが、「人生をまっとうすること」だと私は思います。
講演会が終わってから、私に、次のような質問をした方がいます。
「2年前、有名な神社の境内を歩いていたら、白い光が私の体に入ってきました。パアッとすごい光に包まれたのですが、あれはいったいなんだったのでしょうか?」
私の答え。
「単なる勘違いだと思います」
この人は、「あなたは、きっとすごい人なんだ。それはすごい現象だ」と私に言われたかったのでしょう。
けれど、私は「唯物論者(ゆいぶつろんじゃ・現象が「物質的」に現れない限り信じない)」です。
本当に特別な力を持った光が体に入ったのだとしたら、すでに、私に聞く必要はなかったはずです。
すごい人になったのなら「あれをやっても、これをやっても、何でもうまくいって、すでにひっぱりだこの状態になっている」と思います。
「あれは何だったのでしょうか?」と聞きに来るということは、現時点で、「何も起きていないから」であり、2年間も何も起きていないということは、「単なる勘違い」と考えるほかありません。
「自分には、何かすごいことをやる使命があるはずだ」と思っている人ほど、「目の前の人・こと・もの」を大事にしていないのかもしれません。
「頼まれたこと」を誠実にこなしている人に、「これをクリアしたので、次は別のことをやらせてみようかな…」と、神様だったら思うのではないでしょうか。
http://ameblo.jp/hiroo117/より
小林正観さんは、「頼まれたことがあったら、それをできるだけ全部引き受ける」という。
頼まれごととは、PTAや町内会、あるいは公的なボランティアのようなものから、会社や家庭の仕事も含まれる。
今、目の前に与えられた仕事だ。
ときには、自分の苦手なことも頼まれたりする。
しかし意外に、自分の苦手なことや、不得意なことの中に、人生の転機のキッカケやチャンスになることがあったりする。
だからこそ、「頼まれごと」は、文句を言わず、面白がって、淡々と引き受けることが必要だ。
頼まれごとを何年にもわたって、淡々とやっていくと、自分の使命が見えてくる。
どんな方向に動かされているのか、という神の意志のようなものをそこに感じるからだ。
自分に与えられた目の前の仕事を、淡々と一所懸命にやっている人のところにしか、次のステップはやってこない。
今の生き方がチャランポランな人に、次の飛躍につながる大きなチャンスなどはこないからだ。
まずは、目の前に与えられた仕事を一所懸命に取り組みたい