《“小さな恍惚(こうこつ)”をいたるところで見出すことができる人は幸せである》
天皇陛下が子どものころの英語の教師だったヴァイニング夫人は、少女のころ、夕暮れの空を飛んでいく鷺(さぎ)か何かの鳥を見たときに、一瞬、その美しさに我を忘れるような体験をしたと書いている。
そのとき以来、夫人は小さなことにうっとりとする体験を大切にするよう努めたという。
人生において、大きな喜びで夢中になれるようなことはあまり多くはないかもしれない。
しかし、小さな恍惚(こうこつ)を感じる目を持っていれば、人生はもっと充実感に満ちたものになるはずだというのだ。
松尾芭蕉の句に、「山路来て 何やらゆかし すみれ草」というのがある。
すみれ草は、普段は目にもとめない草だが、それについ見とれてしまう。
このときの芭蕉も、ヴァイニング夫人と同じく、小さな恍惚の状態にあったと言えよう。
こいういう「小恍惚」とも言うべきことが起こるときこそ、本当に、自己が伸びているときである。
小恍惚を人生のいたるところで見出すことができる人は、幸いな人であり、生きがいのある人生を送っていると言える。
ヴァイニング夫人の鷺や芭蕉のすみれ草のように、ある情景に目を奪われるといったことに限らない。
数学の問題が解けたときの言いようのない満足感、時間を忘れて小説に引き込まれているときの充実感、素晴らしい音楽に聞きほれているとこの心地よさ。
すべてが小さな恍惚だ。
ここで言っておかねばならないのは、このときの心の状態が受け身であるということだ。
これは、けっして自分の努力によって獲得したという、能動的、もしくは挑戦的な姿勢から得られるものではない。
なぜ、こんな話をしているかというと、「努力は大事」という思考にはまりこんで、努力至上主義に陥る人が多いからである。
たしかに努力は大事だ。
しかし、断じて努力=価値ではない。
ここを見誤って、努力しないで得たものには価値がないという迷信に染まってしまうと、小恍惚を得ることも、小恍惚を見出すことで成長することもできなくなってしまう。
たしかに、求めるものに向かって一心に努力することは美しい。
ハンディキャップを厭(いと)わず、失敗を恐れず、とにかくやってみるべきだということは、これまでにも述べたとおりである。
ただ、「努力、努力」と思いつめるあまり、努力すること自体が一番の価値だと錯覚してしまっては元も子もない。
それは、ある種の傲慢である。
だから、ときには、受け身の姿勢になって、小さな恍惚を「授(さず)けられる」という心境に浸ってみてもいいのではないか。
今日、自分があることのありがたみがわかるはずである。
http://ameblo.jp/hiroo117/より
ため息には、良いため息と、悪いため息とがある。
良いため息は、心の底からする「ふぅ~」という安堵感のある深くて長いため息。
悪いため息は、「はぁ」という気落ちして空気が抜けるような短いため息。
よく、ため息をすると運が逃げる、と言われているのが悪いため息(短いため息)だ。
肚の底からする深くて長いため息は、大息(たいそく)や長息(ちょうそく)とも言われる。
深い感動や、驚き、あるいは緊張がとけたときにする、いわゆる「小恍惚」の状態をいう。
《“小さな恍惚(こうこつ)”をいたるところで見出すことができる人は幸せである》
いたるところに小さな恍惚を見つけ出せる人でありたい。