2億パーセント大丈夫

「死にたいなら、死んでもいいよ」

ざわざわと騒がしい神戸のカフェ。
正面に座る娘が放った一言に、私は言葉を失いました。
2008年、初夏のことでした。

その日、私は絶望の淵にいました。
急性の大動脈解離という心臓の病気によって胸から下が麻陣し、数ヶ月にわたり入院を続けていたのです。
歩くことはもちろん、当時は寝返りを打つことも、ベッドから起き上がることもできませんでした。
来る日も来る日も、天井を見つめながら涙を流しました。
入院180日目にしてようやく外出許可がおり、私は喜びに心を躍らせていたのです。

しかし、待っていたのは厳しい現実でした。

自宅に帰ることができても、住み慣れたはずの我が家はちっともバリアフリーではありません。
台所に入って、子どもたちに食事を作ることも、もうできないのです。
結局、自宅でもベッドに寝ていることしかできず、すべての希望を断たれた気分でした。

絶望。

その時の私を表すとすれば、この言葉以外にはありません。

「ママ、車いすに乗って街に行こうよ。買い物や食事をしよう」
私が乗る車いすを奈美が押してくれ、二人で神戸市三宮の繁華街に行くことになりました。
自分の足で歩いていた頃は、神戸三宮駅で降り、改札から街へと出るまで1分もかかりませんでした。
でもそこには、車いすで越えられない階段があったのです。

最初は病院や自宅から出られたことが嬉しく、心を躍らせていました。
でも私と奈美のワクワクは、どんどん色を失っていきます。
「ママ、このお店でご飯食べようか。イタリアンだって」
「うん。……あっ、でも、入り口に階段があるよ」

こんな会話を一日に何度も繰り返しました。
お手洗いに行きたくても、車いすで入れる個室はなかなか見つかりません。
17歳の娘に車いすを押してもらい、散々迷って辿り着いたお店の中は狭く、席に着くことすらできませんでした。

どれもこれも、歩いていた頃には気にも留めなかったことばかりです。

「すみません、ごめんなさい、通らせてください」
「ぶつかってしまって、ごめんなさい」

そうやって謝っていると、周りの人たちからじろじろと見られました。
誰かから視線を向けられるたびに「ああ、かわいそうな人なんだな」と言われているような被害妄想に私は取り懸かれていました。
気がつけば私は一日中、謝ってばかりいました。

やっと入れるレストランを見つけた時、私は疲れ切っていました。
車いすでの外出が、こんなに苦しいとは思わなかったのです。
席につくと同時に、「もう無理」と初めて奈美の前で泣き崩れました。

「なんで私は生きてるんだろう。死んだ方がマシだった……」
「こんな状態で生きていくなんて無理だし、母親としてあなたにしてあげられることは何もない。もう死にたい。お願いだから、私が死んでも許して」

終わらない入院生活、つらいリハビリ、楽しめない外出。
世界中の誰からも必要とされていないような気分。
限界だったのだと思います。

すぐに「しまった、なんてことを言ってしまったんだろう」と後悔しました。
私は娘の顔を見ることができませんでした。
私はてっきり「死なないで」「なんでそんなこと言うの」と娘は泣いて言うだろうと思っていました。
父親を亡くして、母親が倒れたという苦難の中にいる奈美に向かって、なんてことを口にしてしまったんだろうと。
申し訳なくて、向かいに座っている奈美の顔を見られませんでした。
きっと泣いているだろうと思いました。
「ママ、お願いだから死なないで」と槌られるんだろうとも思いました。
返事がないので恐る恐る視線を上げると、なんと奈美は泣きもせず、普通にパスタを食べていました。

驚いて言葉を失くしている私に向かって、奈美は言いました。

「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」

私は耳を疑いました。

奈美は手にしたフォークを離さすに、続けます。
「ママがどんなにつらい思いで病院にいるか、私は知ってる。死んだ方が楽なくらい苦しいこともわかってる。なんなら一緒に死んであげてもいいよ」
奈美の目には、固い決意が宿っていました。

「でも、逆を考えてよ。もし私がママと同じ病気になったら、ママは私のことが嫌いになる?面倒くさいと思う?」
「……思わないよ」
「それと一緒。ママが歩けなくてもいい、寝たきりでもいい。だってママに代わりはいないんだから。ママは2億パーセント大丈夫。私を信じて、もう少しだけ頑張って生きてみてよ」

2億パーセント大丈夫。

もちろんその言葉に明確な根拠はありません。

それでも、死んでもいいよと許されたことで、不思議なことに「死にたくない」という思いが湧き上がってきたのです。

娘は私の一番の理解者です。
病気で倒れる前もしょっちゅう二人でショッピングや映画に出かけていましたし、親子でありながら友達のように仲がよかったのです。
そんな娘から返ってきたのは思いもかけず、肯定の言葉でした。

「死にたいなら、死んでもいいよ」
皆さんの中には、ビヅクリしてしまう人もいるでしょう。
親に向かってひどい娘だ、と怒る人もいるかもしれません。
しかし娘の言葉は、それまで受け取ってきたどんな言葉よりも、私を救いました。

ダウン症の良太を産んで途方に暮れた時、主人から「育てなくてもいい」と言われたことが脳裏をよぎりました。

「わかった。あなたを信じて、もう少し生きてみる」
私は奈美に伝えました。

予想だにしない選択肢を与えられたこと、押し殺していた本当の気持ちを話せたことで、私の心は空っぽになりました。
すべてが一度、ゼロに戻りました。

私の生き方や考え方が大きく変わったのはそれからです。