コケの一念、岩をも通す

『虚仮(こけ)の一念、岩をも通す』
高野山真言宗 那須波切不動尊 金乗院『法話集』より

人の心を目で見ることはできませんが、人に心があることは誰もが自覚できます。しかも、そうした心が大きな力を持っていることは、「××の一念、岩をも通す」といった表現があり、古くから様々なシーンで使われてきたことでも分かります。「××の・・・」としたのは、この「××」の部分が実に様々で、例えば「人の一念」や「思う一念」といったものから、「女の一念」「男の一念」さらには「乙女の一念」まで、そして変わったところでは「猿の一念」や「猫の一念」まであるからです。 いずれにしても、様々な時代を生きた先人達が心の力を信じてきた証といえます。
ところで、この表現の原型は「虚仮(こけ)の一念、岩をも通す」という諺です。虚仮とは「虚仮にする」といって「馬鹿にする」という意味で使われます。元々は仏教用語で、「内心と外見が一致しないこと」「真実でないこと」という意味から、 「物事の本質に明るくない人」「実の伴わない人」ということになります。つまり「どんなに未熟で実のない人間に見えても、一心に念じる心があれば、その思いが通じる時が来る」という諺です。 この言ってみれば精神世界の話に対して、同じような意味を持つ物質世界の話として「雨垂れ石を穿(うが)つ」という諺もあり、 一定の場所に落ちる雨垂れは、長い間に下の石に穴を開けるという意味から、小さな力でも根気よく続ければ成功することができるという諺になります。