「不揃い」は本物の証(あかし)

スーパーに並ぶ野菜の大きさは揃っています。

これにはいくつかの理由があるのはご存じだと思います。

ひとつめに流通。
同じ箱に同じ数だけ隙間なく並ぶから輸送効率がいいわけです。

ふたつめに量り売りではなく個数売りができるのも大きな理由です。
つまり作業が軽減し不公平さも軽減できます。

三つめに品質管理でしょう。
同じ大きさのものは一定の管理によって一定の品質が保たれます。

交配種、つまりF1が登場して以来、野菜は大きさや形が揃うようになりました。

一代雑種という他品種交配の1代目の種子はメンデルの法則により遺伝子が似かようという特性を利用したわけです。

ある意味凄い発見であり、凄い技術です。

巨峰等の大粒のブドウは高価な食べものです。

その理由のひとつに粒間引きという作業があります。

育ちの悪い粒を引き抜き、他の粒の成長を促すことで大きさが揃ってくるのです。

ですが、この作業がブドウ農家を苦しめています。

高く売れるのだから必要な作業だと言いきかせるのですが、大変な作業なのは間違いありません。

農業というのは、見た目の品質を上げるために絶えず努力をしています。

僕の小麦だって、高さを揃えることで収量が上がるし、茄子科や果物の肌を守るために袋を被せ、果物の色を揃えるために四方から光を当て、自然の状態でいいならやらなくていい作業を延々と続けています。

やがて消費者はその姿を見慣れてしまいます。

真っ赤なりんご、パックに4つ並んだトマト、粒揃いのブドウ、肌がツヤツヤの茄子。

見慣れてしまえば、綺麗な野菜でも価格はどんどん価値を失います。

価値が下がり、値段が下がってくると、農家の大変な作業が報われることがなくなり、むしろそうした作業が義務となって農家を苦しめます。

色や形が悪いもの、揃わないものは品質が悪いとして、隅に追いやられ、お金に変わることはなくなります。

大変な作業をやらなければ売れない。

結果的に、農家はしんどいのに儲からない職業になり、なり手がいなくなり、食料が船便や陸路で遠くから運び込まれ、海外からの場合は、腐敗や虫食いを防ぐために、農薬をかけられた状態で、消費者の手元に届くようになっていきます。

危険な野菜を作り出しているのは、いったい誰なのだろうかと思います。

農家なのか農協なのか流通なのか小売なのか消費者なのか。

いや、おそらくその全部ではないかと僕は思っています。

植物がなぜ不揃いであるかご存じでしょうか。

ひとつめに遺伝子に多様性があるからです。

生命はたえず種の保存を考えています。

たとえ疫病が流行り、虫の大群に襲われても、必ず生き残るものが現れるようになっています。

疫病に抵抗力を持った実だけがポツンと残される。

虫も食わない小さな実が同じようにポツンと残される。

これが今の野菜にはない生命力です。

ふたつめに、残すべき種の選択ために多様性を持つことです。

自らを環境に一番適した姿に変えるため、常に新しい形、大きさ、性質を持たせた実を作り続けているのです。

皮の硬さや色や実の量、ミネラル量や水分量等に多様性を持たせて、残すべき種を決めているのです。

三つめに、自然の恵みを仲間に分け与えることがあります。

背丈を調整して日光が満遍なく当たるように工夫する。

麦畑の外側が低くなり、中心が高くなるのは必然なのです。

隣の株を育てるために、成長を止めたり、自らを萎ませていく。

大切なのは全体としての種の保存であり、誰が残るかではないのです。

そしてもうひとつ、不揃いの方が美しいからです。

植物はフラクタルに成長します。

同じ大きさではなく、不揃いの大きさの集合体によって、その姿形が美しくなり、動物たちはそれに心を奪われ、癒され、微笑み、食べることを忘れます。

これも、植物の生きる術であり、かつ、それが地球の設計図なのです。