日本軍による南京大虐殺などなかった

senso

日本と中国国民党は1937年8月9日に上海で
現地停戦協定を結ぶことになりました。

そして、いよいよその協定締結のその日の朝
上海で起こったのが、大山中尉虐殺事件です

この事件は海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が車で走行中に、中国の保安隊に包囲され
機関銃で撃たれて殺されたものですが
実はそれだけではなく、射殺後、
中尉を車外に引きずり出して
頭部を青竜刀でまっ二つに割るという
猟奇性も帯びていました。

この緊急事態発生によって
当日予定されていた日本と国民党との
和平会談はご破算になってしまいました。

事件はそれだけに止まりませんでした。

上海に駐屯していた
わずか2200名の日本の海軍陸戦隊に対し
国民党が5万の兵力をさしむけて
これを包囲全滅させようとしたのです。

このとき上海には
約3万の日本人居留民がいたのです。

そしてそれに数倍する
親日家の中国人もいました。

日本政府は上海出兵を決断しました。

そして松井石根大将率いる
10万の上海派遣軍が編成されました。

けれどその間に中国国民党は
なんと60万もの部隊を集め
2万個もの防衛陣地をつくって
まさに手ぐすねひいて
上陸してくる日本軍を待ち受けていたのです

このため松井大将率いる日本軍は
たいへんな苦戦を強いられました。

これが第二次上海事変ですが
この事変で日本側は
41000名もの死傷者を出しています。

この数は、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。

2ヶ月後の11月10日、ついに日本軍は
上海での軍事的脅威を取り除きました。

このときの
イギリスの新聞の報道が残っています。

「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が
非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである」

それが
当時の世界の客観的な反応だったのです。

そして上海を落とした日本軍は
敵の本拠地である南京へと兵を進めました。

城の外側での激しい戦いのあと
日本側は1週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から南京城内にビラを撒いて
告知したうえで、城外に待機しました。

南京の市民たちに
十分な避難の期間を与えるためです。

そして12月10日、総攻撃開始。

12月13日、南京城陥落。

14日に城内に入城した第10軍の山崎参謀は
南京城の南端にある中華門から
東端の中山門までを見分した情況を
日記に記録しています。

「南京城東部は、広漠たる空地にして
 都市計画の雄大さを認む」

つまり南京城内は、なにもない
広大な空き地になっていたのです。

どういうことかというと
日本が攻めて来ることを知った国民党軍が
城内に日本軍が隠れないようにと
市民たちを強制的に追い出し
そこに火を放って
何もかも燃やしてしまっていたのです。

同じく14日の模様を
城内東北部の残敵を掃討した
佐々木第30歩兵旅団長が日記に書いてます

「住民はひとりも顔を見せない。
 痩せ犬だけが無表情に歩いたり
 寝そべったりしていた」

歩兵第38連隊の戦闘詳報には
次のように記されています。

「興衛および十字街付近は
小集落の点在をみるも、住民は居住しあらず

敵はこれらの家屋を
ほとんど焼却し退却せり」

また
ニューヨークタイムズのダーディン記者も
当時の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「1937年12月7日、日本軍が進撃し始めた。
これが中国軍による
焼き払いの狂宴の合図となった。

南京に向けて15マイルにわたる農村地区
ではほとんどすべての建物に火がつけられた

村ぐるみ焼き払われた。

農業研究所、警察学校
その他多数の施設が灰塵に帰した。

火の手は南門周辺地区と下関にも向けられた

中国軍による焼き払いの損害は
優に3000万ドルにも及ぶ」

これが実情です。

これの、どこがどうしたら
南京城内で日本軍が25万もの
虐殺をしたことになるのでしょうか。

中国国民党総裁の蒋介石は
南京戦の始まる3日前の12月7日には
そそくさと南京から逃げ出しています。

蒋介石は、あれだけ準備した上海で
日本軍に負けています。

だから南京でも勝てないと踏んで
逃げたのです。

そして日本軍には
軍事力では勝てないと悟った蒋介石は
この時期から新しい対日戦闘を開始しました

それが広告宣伝戦争(情報戦争)です。

蒋介石は、南京陥落の日の少し前から
年間300回にもわたる
記者会見を行うようになったのです。

これは内外のジャーナリストや
外交官など30~40人の前で
日本がいかに不当であるかを
蒋介石自身が宣伝するというものです。

日本に軍事力で勝てないから
パフォーマンスで勝とうとしたのです。

同時にこれは
日本に負けて兵を失った蒋介石が
新たな兵を徴用するための
広告宣伝活動でもありました。

要するにこのとき中国国民党は
日本と戦争していたわけですから
蒋介石は日本を非難するための
宣伝材料を見つけたり、提造したりしては
毎日記者会見をして、自分たちを正当化し
また日本軍の悪逆非道を
アピールしていたのです。

これが年間300回
毎日のように行われました。

現代中国は、日本軍が南京で
虐殺を行ったと宣伝していますが
昨今、日本の自由主義史観研究会が
当時蒋介石自身が行った300回におよぶ
すべての会見内容について
詳細に分析を行いました。

もし本当に
日本が南京で虐殺を行っていたのなら
宣伝をする蒋介石にとって
それは格好の日本糾弾材料に
なったであろうからです。

ところが300回にわたるその会見で
日本軍による南京での虐殺の話は
1回も行われていませんでした。

要するに日本軍による
南京虐殺などなかった」のです。

日本軍の占領後、南京は治安が回復し
少なくとも大東亜戦争が終わるまで
そこは日本人の若い女性が普通に市場で
一人歩きしてショッピングを楽しんでも
何ら問題が起こらない平和な街となりました

大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり
食料の供給もままならない
ひどい状態が続いていましたが
南京は昭和20(1945)年夏までは
きわめて平和で、食料も豊かで
軍事的脅威やテロの危険のない
安全な街であり続けたのです。

その南京が様変わりしたのは
終戦後、日本軍が去ったあとのことです。

中共軍が南京を制圧し
例のごとく残虐の限りを尽くし
一般市民10~15万名という
とほうもない死傷者を出しています。

このとき
南京市民の3人に1人が殺害されました。

通州事件や南京での虐殺事件を起こした
張本人が、実際にはありもしなかった日本軍による南京大虐殺なる虚構をこしらえ
これをいまでも宣伝しているのです。

日本人は、もう目を覚ますべきです。