いま起きてることといちばん響き合うのが岡田更生館事件

岡田更生館事件(おかだこうせいかんじけん)とは、岡山県吉備郡岡田村(現倉敷市真備町岡田)に1946年(昭和21年)12月から1950年(昭和25年)まで存在した浮浪者収容施設・県立岡田更生館で起きた監禁、暴行傷害、殺人事件である。犠牲者は開設から2年余りで76名にものぼった。1949年(昭和24年)2月、毎日新聞大阪本社の社会部記者であった大森実が浮浪者に変装して施設内に潜入し、朝刊社会面で事件を報道、”この世の地獄”として世間を震撼させた。

事件の背景

戦争によって生み出された弱者
太平洋戦争後の混乱期であった1946年、戦禍で家、家族、職を失った者、あるいは外地からの引揚者、復員兵などが浮浪者として街の路上に溢れた。岡山市中心部では老若男女500人以上が路上で生活しており、県全体では未成年の浮浪者だけでも約2,000人を数えた。その中には犯罪に手を染める者もいて、住人が被害に遭うなど治安の悪化が懸念された。フラナガン神父の勧告により、GHQの軍政部はそうした問題を一掃するよう命令を出し、彼らを救済するため強制的に収容する施設が全国に62ヶ所設けられた。岡山県では県の厚生課の主導で黒崎更生館(現倉敷市玉島)、西川寮(現岡山市北区)、そして岡田更生館の3施設が開設された。岡田更生館は最も規模が大きく、ピーク時500人超の収容者がいた。殆どは成人男子だったが、中には子供や乳幼児、女性の収容者もいた。児童67人は翌年4月、岡山市平井の岡山保護児童収容所(少年の丘)に移された。

模範施設
福祉の先進県と呼ばれた岡山県に於いて、岡田更生館は当時の新聞に『模範施設』として取り上げられるほどの施設であった。周辺は長閑な田園地帯であり、山裾にあった健民修練所を転用した施設は周囲を長い白壁の塀に囲まれていた。代官屋敷を思わせる立派な門構え、その前の小川には橋が架かり、近くの民家には後にミステリー小説で名を馳せる作家の横溝正史が家族と共に疎開していた。開設の翌年には収容者から成る”更生演芸団”が、共同募金運動に参加して県内巡業を行った。時折入る警察等の行政の視察でも全く問題は認められなかったが、一度、逃走した収容者が九州の大牟田の警察に訴え出た事があった。福岡県警からの依頼で岡山県警が調査したが、収容者が訴えたような事実は無いと結論付けられていた。

模範施設の実態

職員の甘言
1949年1月、放浪詩人・北川冬一郎が職を探して倉敷市に来た。しかし職に就けなかった彼は途方に暮れて寒い駅のベンチで一晩を過ごす事にした。翌朝、眠っていた彼は岡田更生館の職員Sに揺り起こされ、更生館に行くよう言葉巧みに勧められた。Sは岡山東署の巡査部長を務め、戦時中は朝鮮でも巡査をしていた経歴の、身なりの良い紳士風の男だった。施設では十分な食事が用意され、館内の授産場で作業をすれば1日3 – 4百円の賃金が与えられ、貯金も出来るので、金が貯れば出所して商売でもすれば良いと言う。県主査の肩書の名刺を渡された北川は喜んで入所する事にし、彼と同じ日に5人の失業者がSの紹介で入所した。しかしSの言葉は全くの嘘であった。

死の更生館
入るなり頭を丸坊主にされた詩人を待っていたのは、食事もろくに与えられず、仕事も無く、土蔵のような作業場の2階に入れられたまま、栄養失調で衰弱死するのを待つばかりの絶望の日々であった。施設内の衛生状態も劣悪を極めた。畳一畳当たり数名という過密な部屋、食事は朝晩は椀一杯の水のように薄い雑炊、昼はパンか豆の入った黒い麦飯。夜寝る時は脱走防止の為全裸になるよう命じられ、ドンゴロス1枚が布団の代わりであった。収容者の約半数が結核に、ほぼ全員が重い疥癬に罹っていた。医務室はあったが、医者はおらず、女医を自称する年老いた看護婦が一人いるのみであった。治療と言っても、傷口に塩を擦り付けるだけで、栄養失調で免疫力が極端に低下した収容者は疥癬の掻き傷が元で死亡した。施設の非人道的な処遇に耐えかねて脱走する者もいたが、じきに連れ戻され、見せしめとして苛烈な私刑に遭った。暴行は時に深夜まで続き、棒で頭を殴り殺される者、折られた肋骨が肺に刺さって死ぬ者、暴行によって足腰が立たなくなりそのまま死亡する者もいた。遺体は戸板に載せられ、夜明け前の闇の中、薪と共に外へ運び出されて、裏山で密かに焼かれた。これらの身の毛もよだつような行為は、収容者の中から選ばれて指導員に昇格した者と、命令に従わされる一般の収容者によって行われた。死亡届は医師免許も無い老看護婦が書いていた。

後の調査で、館長のNらは私腹を肥やす目的で、収容者の保護費として県から給付される公金を横領し、収容した浮浪者を衰弱死させていたと判明する。岡山県出身の日本共産党衆議院議員苅田アサノは、N館長が戦前満州で長らく巡査を務めていた経歴に注目し、「こういう民主的な新しい社会施設を自分が主宰しでやるには不適当な人だと思う」(原文ママ)と厚生委員会で発言した。

同年2月中旬のある晩、丸坊主で汚い身なりをした浮浪者が、毎日新聞大阪本社に駆け込んだ。岡田更生館からの脱走に成功した詩人の北川だった。

新聞記者による密偵

社会部記者・大森実
収容者にとって脱走は前述の通り死を意味したが、収容者が毎日1人2人と死ぬのを目の当たりにした北川は、県庁からの視察があった日に脱走を決行した。その日、岡田更生館では収容者の中でも健康状態の良い者を選んで演芸会を行い、視察人に披露した。終了後、彼は借りてきた椅子を村役場に返しに行く途中で逃走した。更生館は県営であり、警察ともグルなのではないかと疑った彼は、はるばる大阪の毎日新聞本社へ向かったのである。

「どえらい事件だ」と言う社会部副部長・山本礼から、昨晩宿直の記者が聞き取ったメモを渡された大森実(当時27歳)は、その日の内にベテランのカメラマン・向井健治と共に岡山に向かった。岡山は大森の両親の故郷だった。しかし、北川の「入所以来1ヶ月の間に自分の周囲で5、60人は死んだ」という話はにわかに信じがたく、大森も向井も「話が出来すぎている」「放浪詩人の小説ではないか」と疑念を抱いていた。

岡山支局に到着した大森と向井を支局長の丹羽良夫が迎えた。丹羽は両記者が来るまでこの件には手を付けずに待っていた。この丹羽という男は仕事では鬼支局長と呼ばれたが、情に篤く、酒好きで涙もろい男でもあった。丹羽は部下の武田武記者を紹介し、支局員の誰でも使えば良いと言って全面的な協力を約束した。

大森はまず県庁に向かった。厚生課を訪れ、Sを探した。幸いなことに、普段は更生館内で事務を執っているSはその日登庁していた。大森は気づかれぬように離れた場所からSの顔を確認した。そして県庁内を回って岡田更生館の評判を聞いて歩いたが、1人の例外もなく「あそこは模範施設じゃけえのう、…」と言う。模範施設として報じた新聞の切り抜きをわざわざ取り出して見せてくれる県主事もいて、北川の証言を裏付けるような話は一切出てこなかった。

これ程地元の評判が良くては手も足も出ない。大森は支局に戻り、必死に手がかりを求めて各新聞のバックナンバーを調べた。そしてついに前述の『脱走者が大牟田署に訴え、調査の結果否定された』という小さな三行記事を紙面の片隅に見つけた。大森は即刻現場に行く事を決意し、同行の向井カメラマンと共に見るも哀れな浮浪者に変装した。向井は復員兵のレインコートのボタン穴にカメラレンズを仕込み、望遠レンズもコートの下に隠し持った。

浮浪者に扮して岡田村へ
大森と向井は倉敷通信部主任の梅津恵が運転する社の車で岡田村に向かった。村の入口には火の見櫓と一軒の旅籠があった。旅籠の前で車を降り、冷たい夕暮れの田舎道を歩いて行くと、なだらかな山の裾に岡田更生館が見えた。大森と向井は立派な建物と美しい白壁の塀に「本当にあそこで暴行殺人があったのだろうか」と、放浪詩人の作り話に引っ掛けられたのではないかと疑った。

しかし近づいてみると正門前に屈強な若者が6人、棒を持って立っていた。ララ物資のような色物のジャンパーを着た彼らは、前を通り過ぎた二人を胡散臭げに睨んだ。大森は見張りの若者の目つきの悪さに直感的に「臭い」と感じた。詩人・北川の証言によれば、館長は柔道五段の猛者で、施設内の屈強な若者に柔道を教え、強そうな50名程度を指導員として監視に当たらせ、昼夜を問わず哀れな収容者を虐待しているという事だった。「あの棒が気に入らないな。あれで肋骨を折るのかも知れんぜ」。

隠密行動を取るために日没を待った。冬の日は早く暮れ、周囲が闇に包まれたが、岡田更生館の門前には明々と篝火が焚かれた。正門、裏門、便所の汲取口がある所、裏山へ続く道の入口の4ヶ所に焚き火が焚かれ、その場所ごとに6人の若者が棍棒を持って配置された。

県営の更生館に何故24人もの不寝番が必要なのか。何故逃亡を監視する必要があるのか。その答を求めて二人は別行動を取る事にした。

大森は月明かりを頼りに裏山に登って施設内を見下ろした。時刻はまだ午後8時だというのに施設内は真っ暗で静まり返っていた。作業場と称する土蔵造りのかなり大きな建物が3棟あり、屋根すれすれに僅かに2,3ある武者窓から、館内の微かな明かりが漏れて来るだけで、内部の様子は皆目わからなかった。しかし、そこが死の監獄部屋だという心証はかなり強かった。山を降り、一軒の農家の戸を叩いて「あの更生館に入りたいんですが、怖い所だと聞きました。大丈夫でしょうか?」と、顔を覗かせた住人に聞いてみたが、「行きゃあええ。怖い事やこ、ありゃあせん。」と取り付く島もなく戸を閉められた。

一方の向井は、便所の傍の焚き火をカメラで狙っていたが、便所に繋がる渡り廊下を発見し、ドンゴロスを一枚被った痩せた全裸の収容者が便所に入って行く姿を撮影した。

午後11時、支局に帰った両名を支局長の丹羽が待っていた。

向井が暗室から出て来て、「これを見てくれ」と、びしょ濡れのままのキャビネ版印画紙を大森と丹羽支局長の前に突き出した。そこには、肋骨が皮の表に突き出すのではないかと思われる程に痩せた、幽鬼のような浮浪者の姿が写っていた。

大森は大阪本社に写真を伝送して応援を頼み、前もって指名して待機させていた小西健吉記者が翌日合流した。3年前の昭和南海地震では彼はまだ工場で平版を修行中の見習生だったが、どさくさに紛れて社会部の特派員団に勝手に潜入し、震源地へ向かう漁船に乗りこむという荒技を演じて社内で一躍有名になった。海は未だに津波の余波が続き、流されて来た流木で埋め尽くされていた。大人しくしていればいいものを、彼はガラガラ声で船頭を叱責し、たちまち記者たちの目を引いた。

大森は更生館の事件を聞いた時、米国の白人記者が顔を日に灼き有色人種に変装してクー・クラックス・クラン (KKK) が起こした事件を取材、ピュリッツァー賞を受賞した話を思い出した。今回の事件は館内への潜入取材が必要だと直感した大森は、年が若く豪胆な小西を相棒にして欲しいと副部長に願い出ていた。

裏山で密かに焼かれ、墓標も無く埋められていた
向井は鮮明な写真を撮るべく、望遠レンズを装着したカメラを裏山に固定し、館内を見張った。支局の武田記者も配給米やララ物資の横流しが無いかと取材に協力した。大森と小西は浮浪者の格好をして周辺の住人から更生館の評判を聞き出そうと歩き回ったが、どの家も声をかけた途端にピシャリと戸を閉められる日々が続いていた。一週間目の夕方、更生館のすぐ裏手の山の中腹にある農家を訪ねた。あの更生館に入りたいのですが、と言うと住人の農婦は「本当に入りたいんか」と尋ね返し、ちょっと入れ、と二人を台所に招き入れた。四十歳ほどの農婦は二人が引揚者だと聞くと「よう生きて帰りなさったのう」と気の毒がり、番茶と握り飯を振る舞った。しかし大森が再び「更生館に入りたい」と持ち出すと、農婦は途端に声を低くして言った。「やめなせえ、殺される!」。聞けば、この家の主人は毎朝更生館に出入りしており、一週間に5人も6人も死んでいるのを見ていると言う。朝の4時頃にこの横の道を、死体と薪を積んだ戸板を痩せた収容者達が担いで登って行き、山の上で焼くという事であった。「山の上に仮の火葬場があるんじゃ。死んだ浮浪者を、同じ浮浪者が薪で焼くんじゃ。きょうてえ(恐ろしい)ぞな……」。

大森と小西は農婦に礼を言って裏山に駆け上った。

「あった!」大森も向井もこの辺りには何度となく登っていたが、今まで見落としていた。山道から少し入った所に小さな広場があり、レンガを囲炉裏のような矩形に積み重ねただけの、野天の死体焼却炉があった。炉の底には小さな人骨が散らばっていた。

小西は先日、村内の千光寺を探訪し、数十個の無縁仏の骨箱を発見していた。だが大森の調査では、村役場に提出された死亡届はその数十分の一だった。医師免許を持たずに死亡届を書いていた老看護婦と更生館館長の関係についても不審な噂を耳にした。後になって判明した事だが、骨箱に納められることもなく、焼却炉の広場にそのまま遺骨を埋められた犠牲者が大勢いた。

焼却炉を確認した大森と小西は山を降り、さらに話を聞こうと一軒の大きな寺に立ち寄ったが、出て来た住職の妻らしき子供を抱いた女性に強盗と間違えられた。小西の凄みのある声に怯えた女性は大声で助けを呼び、大森は咄嗟に小西の手を引いて一目散に逃げ出した。緊急を告げる早鐘がボォーン、ボォーンと打ち鳴らされる中、何とか捕まらずに逃げおおせたが、この騒動のために周辺での聞き込みを終えざるを得なくなった。三人組の強盗がうろついていると村内で噂が立ってしまえば、捕まえられて警察に突き出される。村内での行動がもはや不可能となったこの日、大森は更生館内部への潜入を決意した。

遺体が運び込まれた山林。奥に慰霊碑が見える

極秘の作戦
しかし大阪本社は潜入取材を認めなかった。ベテランのデスク・”バタはん”こと北畠兼親の話では、本社幹部は記者の身にもしもの事があってはと非常に慎重になっており、外部からの取材だけで何とか記事が書けないものかと打診して来たと言う。これに対して大森は「外から書けないことはないが、決め手が無い。相手は県営の施設だから後で必ず問題になる。」と譲らなかった。そこで北畠は「君が無断でやってしもたらどうや」と、社の意向に背いて勝手に潜入する事を提案した。北畠は全て自分が責任を取ると言外に示したのだった。「では明朝早く入ります」。大森が受話器を置くと、横でやり取りを聞いていた丹羽支局長が一升瓶を持ち上げ、「乾杯!いよいよやるか」と声を上げた。

2,3日前から岡山市局内では夜になると丹羽がコップ酒を飲みながら主催する作戦会議が開かれていた。議論の末、浮浪者に扮した大森・小西を確実に更生館に送り込み、かつ無事に救出するには、やはり検察と警察の協力が不可欠という結論が出ていた。しかし先方が更生館に通報でもしたら一巻の終わりである。丹羽が言うには、岡山地検の川又検事正は親分肌の信頼できる人物であり、倉敷署署長の吉井も梅津主任によれば話せる人物だとのことだった。

大森は自分たちを浮浪者として倉敷署に留置してくれるよう、署長を説得して欲しいと梅津に依頼し、これは極秘の作戦であり、社内でも口外せぬよう念を押した。そして丹羽支局長の紹介状を持って川又検事正の公邸を訪問した。

「あれは模範施設だそうだが」と訝しげな顔をする川又に、向井カメラマンが苦心して隠し撮りした証拠写真を差し出した。川又は1枚1枚じっくりと目を通し終えると用件を訊いた。「浮浪者に化けて潜入し、館内の実態を追求したいのです。脱走して警察に訴える者もあったのに、警察の怠慢は明らかです」。すると川又は国警に電話し、隊長の大石を呼んだ。「吉備郡岡田村の県営更生館で不正があるそうじゃないか」と問い質された大石は「訴えを受けて警部補を派遣し調査した事が2,3回あるが、結果は全てシロだった」と電話口で主張した。川又は電話を終えると大森に言った。「国警は全面否定した。君、やりたまえ」。危険だから岡山市警の刑事を1人つけてやるという川又の申し出を、大森は記者根性で断ったが、その上で「明朝に潜入し館内で一泊すれば取材は十分、正午きっかりに検事を岡田更生館に派遣して自分たちを救出して欲しい」と頼んだ。川又は大きくうなずき、検事を1人連れて自分が行くと約束した。

大森が川又検事正の公邸を辞して支局に戻ると、「倉敷の吉井署長から、協力するとの返事を得られた」との吉報が待っていた。今夜の内に倉敷入りし、旅館に一泊、早朝から作戦を開始する手筈を整えていると、そこへ大阪本社学芸部の記者・新野がひょっこりと現れた。大原美術館の取材のためにやって来たのだが、支局内のただならぬ雰囲気に驚いて「何か事件でも?」と尋ねた。大森は適当な返事で誤魔化そうとしたが、新野が提げているこうもり傘を見て、秘密作戦を1つ思いついた。

この一週間の取材状況を聞かされて「えらいことだな」と神妙な顔になった新野に、大森は「明日の夕方、手を空けてくれ」と頼んだ。「俺と小西が更生館に潜入した後、夕方に学芸部記者の名刺とその傘を持って更生館に来てくれ。模範施設の紹介記事を学芸欄に書くから取材に来たと言えば相手は信用する。で、館内視察をして、上手いこと新入りの俺の事を聞き出せ。」「ばれないかな」「君は何年記者をやっているんだ。大丈夫だから、俺のいる作業場まで案内させろ。」「わかった」「俺が、俺の額に手を当てたら”クロ”、顎をさすったら”シロ”だ。わかったら、そのこうもり傘で床をトントンと軽く突け。更生館から出たらすぐに支局に電話してクロかシロか伝えろ、いいな?」。

新野と打ち合わせを終え、大阪本社に電話を入れると、夜遅くにも関わらず山本副部長と北畠デスクが出社していた。「準備完了、明朝潜入します。応援願います。」と大森が告げると、山本の張り切った声が聞こえた。「幹部の許可が出たんだ。俺が行く。これから出発するところだ。カメラマン2名と社会部の記者3名も連れて行く。社の車2台とオートバイ3台の編成だ。夕刊新大阪の連中も一緒だ。明日朝8時頃には岡山に着くはずだ」。大森に代わって小西も電話口に出た。「上手くやれよ」「やりまっせ!やってきまっせ!」小西は大声を出した。

潜入

決行
2月15日深夜、本社との連絡を終えた大森と小西は車に乗り込み、翌16日午前1時を回った頃に倉敷の旅館に到着した。午前4時の行動開始まで3時間の仮眠を取る事になっていたが、大森は神経が高ぶって中々寝付けなかった。小西の方は横になった途端に高イビキをかいて寝ていたが、その横で大森は急に身辺に強い恐怖を感じた。下手をすれば殺される可能性があるからだ。午前4時、二人は持参したボロ着とわらじで変装し、空の炭俵を逆さにして頭から被った。細かい炭の粉が大量に落ちてきて、顔から手の先まで真っ黒になった。打ち合わせ通り、梅津主任が車で迎えに来た。決行である。

大森と小西を乗せた車は倉敷署の裏手の署長官舎に向かった。官舎裏口のベルを押すと和服姿の倉敷署署長・吉井が二人を迎えた。「断ろうかと思ったが、君たちの命がけの熱意を聞いて断りきれなかった。吉備郡の署長は俺の長年の友人だから、君たちの潜入を俺が手伝ったと知ったら恨むだろう。それが辛い」。申し訳ありません、と深々と頭を下げる両名に吉井は「君たちが二つの命と新聞社の看板をかけて仕事をやる以上、俺のちっぽけな看板など問題じゃない。しっかりやってくれ。」と激励した。

吉井は彼らを警察署に連れて行き、密かに留置場の鍵を開けた。「朝8時になると司法主任と刑事が来る。俺が朝の散歩で倉敷駅で拾った事にしておくから上手くやれ」。

留置場の鍵がガシャリと下ろされ署長が去った途端、大森は体が震え始めた。大仕事を前にしての武者震いではなく、恐怖によるものだった。

署長が言った通り、午前8時頃に留置場の扉が乱暴に開かれ、入って来た2人の刑事に大森と小西は連れ出された。取り調べでは大森が北朝鮮からの復員軍人、小西は満州からという設定で刑事の質問に答えた。だが刑事は警察(サツ)回りの記者・小西のふてぶてしい面構えが気に食わなかったらしく、「こいつ!余罪があるんじゃないか?ひとつ叩いてやるか」と大声を出した。こんな所で時間を取られてはスケジュールが狂ってしまう。小西は神妙に身の潔白を立証しようと試み、大森も必死で小西の弁明をした。2時間以上経ったところでようやく刑事は2人が只の浮浪者だという事を認めた。「よし!岡田送りだ!立派な更生施設じゃけえ、精出して働いて来い!」。

午後1時頃、荒々しい足音と共に例のララ物資の派手なジャンパーを着た岡田更生館の指導員が4人、留置場に入って来た。「岡田送り2人のガラ受けに参りました!」直立不動のままそう言うと、鉄格子から出された大森と小西を連れ、倉敷署の正門を出てバス停に向かった。

バス停にはレインコート姿の武田記者がバスを待つ客の風を装って立っていた。バスは混み合っており、指導員は席に座ったが、大森と小西は立ってつり革にぶら下がった。武田記者はそしらぬ顔で大森の背後に背を向けて立った。一言も口をきかなかったが、バスが揺れる度に武田の体が大森にぶつかり、大森はなんとも言えない親近感を感じた。岡田村の入り口にある火の見櫓の所で一行はバスを降りた。武田は降りなかったが、大森が振り向くと、バスの窓越しに彼の熱い眼差しが全身に降り注ぐようだった。

異臭を放つ灰色の汁
岡田更生館は正門を入った左手に事務所があった。そこで大森と小西は3時間に渡る長い取り調べを受けた。更生館側は彼らを共産党員の潜入ではないかと疑っていた。事務所で長時間留め置かれたのは誤算だったが、その取り調べによって両名は第一作業場に配属された。作業場は第一、第二、第三とあり、浮浪者はまず第二か第三に収容される。大森らが収容された第一作業場は、第二・第三から指導員に昇格されると見込まれた”優等生”を入れる特別室だった。更生館は外部から視察が来ると、この第一作業場のみに案内していた。第一作業場はバラックの2階建てであったが、第二、第三作業場は土蔵造りの建物で、大森が裏山から覗いた小さな武者窓しかない2つの建物はこれだった。そしてこの土蔵こそが暴行殺人が行われていた生き地獄の監獄部屋であった。

便所を1つ挟んで渡り廊下で繋がる第一作業場は縄ムシロ倉庫で、その2階部分が居住スペースだった。

しかしこの第一作業場でさえ、収容者全員が栄養失調でやせ細り、目ばかりギョロつかせて、十分に監獄部屋と言って差し支えない酷い場所であった。収容人員は約30名、6畳の畳敷きの日本間が二つあり、大森と小西は別々に配属された。

大森が用を足しに立ち上がると「おいこら、後をつけろ!」と激しい警戒の声が掛かり、部屋に戻ると部長の1人が「おいこら新入館!便所に行くなら断って行け。今度黙って行ったらぶん殴るぞ!」と怒鳴った。各作業場に部長と副部長が1人ずつ、その下に数名の班長がボス的な全権を握っている。他に、指導員と言われる部長級が30名いる。皆入所1年ないし1年半の牢名主的存在で、命令は軍隊式である。彼らは館長の眼鏡にかなった若者たちで、食事も十分に与えられていた。そして彼らこそが逃亡者をリンチにかけたり、棒で殴り殺したりしているのだ。

事務所の横に吊られている鐘が鳴り、夕食の時間を告げた。ここでは旧軍が使っていた古い食器が転用されていた。海軍のアルミ製の椀が人数分、部屋の畳の上に直に並べられ、収容者が陸軍のアルミのバケツで夕食の雑炊を運ぶ。

四十個のアルミ椀に、どろどろした黒っぽい汁がつがれる。四十人の八十個の眼が、ぎらぎら獣のように光って、アルミ椀につがれる黒い汁の分量を監視する。
その眼は、もはや人間の眼ではない。飢えた獣の眼である。たとえ一分でも、椀につがれる汁の分量の不公平を見逃さぬ、必死の眼であり、私はこの眼を見て、ぞっとした。
— 大森実著『挑戦』 p.106より

23,4歳の班長が「食べろ」と号令をかけると、全員が一斉に野良犬のように汁をすする。大森も椀を口元に持っていったが、何とも言えぬ気味の悪い悪臭がして、飲むのを躊躇った。汁の中には溶けかけた米粒が7,8粒と大根の切れ端が1つ入っていたが、泥を混ぜたような見た目だった。怪しまれてはならないので吐き気をこらえながら何とか半量を飲んだが、それ以上は無理だった。椀を下に置き、ため息をつくと、隣に座っていた男が小声で「飲みづらいか」と聞いた。大森は「いや、飲める」と返答したが、男は「嘘をつけ。飲んでやろうか、いや、飲ませてくれ。」と言った。大森はこの男が敵ではないと直感し、「飲んでくれ」と小声で囁いた。すると男は目にもとまらぬ速さで、自分の空の椀と大森の椀を取り替え、ズーッと音を立てて一気に飲み干した。横で大森は危うく嘔吐しかけた。

そこへ鐘が3回鳴り、荒々しい足音を立てて屈強な若者の指導員が階段を駆け上がって来た。「視察だ!食器をしまえ!」約束通り、新野記者が取材と称してやって来た。

班長の号令でアルミ椀が片付けられ、第一作業場の30名は二列になって板張りの廊下に整列し、正座した。指導員に案内されて、こうもり傘を持った新野が階段を上がって来た。学芸部の新野は紳士然として辺りを見回し、「新入館はどの男ですか」と班長に尋ねた。班長は大森を指して「あの男です。あいつは北朝鮮からの引揚者です。」と答えた。新野が大森の前に来て立ち止まると、大森は正座したまま深々と一礼し、素早く右手で額をさすった。新野はこうもり傘でコツコツと床を突いた。大森は再び深々と頭を下げた。

更生館を後にした新野はすぐさま支局に連絡し、支局と大阪から来た社会部は行動を開始した。打ち合わせ通り、あの村はずれに一軒だけある旅籠を報道拠点とした。

更生館の夜
新野が帰った後、1時間ほどで就寝時間の午後8時になった。作業着を脱ぐよう命じられ、小さく畳んだそれを枕代わりにする。押し入れからドンゴロスが取り出され、2,3枚重ねにして部屋中に敷き詰めると、収容者たちは次々とその間に潜り込んだ。それぞれ横になる場所を決めてあるようで、6畳間に15人の男が折り重なり、入り混じって寝る。大森は部屋の端で冷たい板の廊下にはみ出して横になった。

部屋の中の裸電球が消され、明かりと言えば階段の登り口の天井に吊るされた裸電球だけだった。その鈍い明かりが室内を薄暗く照らし出していた。

消灯後、10分と経たないうちに大森の耳に異様な音が聞こえて来た。全員が無意識にであろうが、体をガリガリと掻きむしり始めた。皆、重症の疥癬であった。大森は自分の胸板の上に尻を乗せた状態で横になっていた男に「痒いですか?」と聞いた。坂本修というシベリア帰りの27歳だった。「痒いよ。君もすぐに罹るぜ。おい、逃げてはならんぞ」。どうして逃げてはならないのかという大森の問いに、坂本は狂ったように体を掻き毟りながら答えた。「殺される」。大森は驚いた風に「まさか」と返したが、坂本は「本当だ。俺も殺されかけた。」と、身の上話を始めた。

坂本は熊本県出身で、シベリアから帰国後、一旗揚げるつもりで岡山にやって来たが金を使い果たし、倉敷駅前で岡田更生館行きを誘う甘言に引っ掛かった。「3,4日だけ働いて金を作ったら良い」と誘われ、信用してついて来たらこの有様だった。そして去年、7人の仲間を誘い脱走した。鳥取県に向かい、闇夜の山中を駆け抜けたが、二日目、大きな橋に差し掛かった時、そこで待ち伏せしていた更生館の職員に捕まってしまい、連れ戻された。そして棒きれで肋骨が折れるほど殴られて血を吐き、何とか命はとりとめて以来、脱走は諦めていた。

坂本は脱走に失敗して殴り殺された者を知っていると言った。「ここは刑務所ではない、更生施設のはずだ」と言う大森に、隣に寝ていた30歳ほどの男が毛布の中から話しかけた。「君らは幸運だ。初めから第一に入れられるなんて特別待遇だよ。みんな第二第三で酷い経験をして来た。入ったらすぐに丸坊主にされる。寝る時は丸裸だ。」「どうして」「脱走防止と、ノミ・シラミの予防だろう。雑炊をすすって一日中あそこに座っていてみろ、大抵栄養失調で痩せこけてしまう。ひと月に20人ぐらい死んだ。前夜まで元気に話していた男が、朝起きると死んでいた。俺もここに来た時は丸々と太っていたが、二ヶ月でこんなに痩せた。手紙は書けるが全部検閲される。」

大森は同室の者から詳しい話を聞き出す事に成功したが、第二、第三作業場の様子を自分の目で確かめたくなり、夜中の2時頃、用を足しに行ったついでに館内を探査する事にした。

死を待つ収容者たち
大森は便所を通り抜け、渡り廊下を通って第二作業場に向かった。入り口から入った所の階段を登った大森の目の前に、200人の収容者が死を待つ、悲惨極まる生き地獄があった。大森は息を呑み、仄暗い裸電球の明かりの下、四列に重なり合って横たわる収容者たちの中を、這い回って見て歩いた。毛布代わりのドンゴロスからはみ出す、肋骨を剥き出しにした体。ここが紛れもなく死獄であることを確信した大森は、さらに坂本に教えられた通り、階段を降りて医務室の前にたどり着いた。大森がドアを半開きにして中を覗くと、三体の死体が転がっていた。否、正確には三人の臨終の亡者が、虚ろに瞳孔を開け口を半開きにしたまま、弱々しく最後の呼吸をしていた。

「こらっ!何をしとるんだ!」怒鳴り声と共に大森は背中を強く殴られた。「貴様は今日入った新入館だな、こんな所で何をしとるんだ!」。大森はその場に居竦まり、「便所に…」と答えた。「嘘をつけ、便所はあっちだ、逃げる気だな!」。大森は否定したが、若い指導員は手にした棍棒で地面をドスンと突き、「逃げてみろ!これでアバラを折ってやるからな!」と怒鳴った。そして大森の頭を鷲掴みにし「生意気に髪を伸ばしやがって!明日の朝、丸坊主にしてやる!」と言って平手打ちを食らわすと「早う一作(第一作業場)に帰って寝ろ!」と命じた。

「心配したぜ。逃げる気だったんじゃないか?逃げるなよ、殺されるからな。」大森の帰りを待っていた坂本は、大森が医務室に行ったと聞くと「見たか?」と言った。「見たよ」「ごつい(非道い)だろう」。

脱出
一夜明けて17日。起床時間は午前6時、再びあの泥水のような汁が配られた。隣に座った男が言った。「飲み込むんだぞ。食わねば死ぬだけだ。弱ったら第二か第三送りになる。目を瞑って一気に飲め」。

正午に川又検事正が畑中検事を連れて救出に来る手筈であったが、大森は丸坊主にされてはかなわないのと、脱走者がどういう目に遭うのか実際に体験してみたくなり、脱走を試みる事にした。朝食後は一斉清掃である。まさに軍隊の規律で収容者を縛っているわけだが、唯一にして最大の違いは栄養価の無い食事が与えられる事だ。大森は清掃の最中に小西を便所に誘った。大森が先に行き、小西が後を追って隣の個室に入った。入館以来最初の打ち合わせを便所にしゃがみながら行った。小西は大阪の洋服屋の丁稚を子分にしたと言う。やはり四百円に騙されて連れて来られた少年だ。大森が「今から脱出したい」と告げると小西は「もう脱出ですか?あと一週間ぐらい居ましょうや。どうせ特ダネだから、こってりやりましょうや。」と呑気な事を言った。「こんな所は懲り懲りだ、早く逃げないと丸坊主にされるぞ。疥癬に罹ったらどうするんだ」。大森は以前、玄人女から疥癬を伝染されて四苦八苦した経験があったが、ここの疥癬はそのような生易しいものではない。

「小西、ついて来い!」大森と小西は便所から中庭を抜けて一目散に正門入口へと走った。たちまち激しい鐘が鳴った。全館に脱走を報せる非常警鐘である。

大森と小西は十数名の指導員によって呆気なく捕えられた。二人は屈強な若者たちに引きずられて事務所に連行された。事務所の一番奥の机に、目つきの鋭い五十絡みの男がいた。Sである。「新入館のくせに脱走とは生意気な奴らだ!どうしてくれるか、今に見ておれ!」と怒鳴った。ここで怯んでは危険だと思った大森は叫んだ。「我々は只の脱走者ではないぞ!」。では何だ、と言うSに大森は答えた。「我々は毎日新聞大阪社会部の事件記者だ!」。

Sは椅子から立ち上がり、「この間もブン屋を騙る脱走者がおったわ、ブン屋だというなら証拠を見せろ!」。

大森はグッと詰まった。浮浪者に変装していたのだから証拠などあるはずもない。それを見たSは途端に居丈高になった。「おいみんな!このニセ記者を柔道場に連れて行って痛い目に遭わせてやれ!二度と脱走などせぬようにな!」Sの言葉が終わらぬうちに指導員が大森と小西の腕を掴み、猛烈な力で彼らを外に引きずり出そうとした。坂本のように肋骨を折られる危険があった。大森は渾身の力で指導員たちの手を振り払うと、Sに向かって叫んだ。「ゆうべ取材に来た記者は我々の仲間だ!貴様らがどんなに慌てて視察者を騙すか、この目で見たぞ。ニセ記者かどうか、今から証拠を見せてやる!」そう啖呵を切った大森は目の前の受話器を取り上げた。毎日新聞社の一行が待機しているはずの、村外れの旅籠に電話を入れると、聞き覚えのある声が「なんや?誰や?」と言った。夕刊・新大阪に出向中のベテラン記者・西尾の声だった。「大森です!すぐ来て下さい、殺される!」

5分も経たない内に、赤い社旗をはためかせて乗用車2台、オートバイ3台に分乗した社会部の記者仲間、夕刊・新大阪の記者が岡田更生館に乗りつけた。向井カメラマンもいた。大森は向井を案内して、瀕死者のいる医務室から、第一、第二、第三作業場へと駆け回った。向井のカメラのフラッシュが閃き、現場の証拠写真が次々と撮られていった。事務所では更生館の帳簿を抑えようとする小西らと、N館長以下が書類を奪い合っていた。

現場の総指揮を執る山本副部長から「早く旅籠屋に行って原稿を書け」と指示され、大森は正門前に停めてあった社用車に飛び乗った。旅籠の2階には連絡速記員が2名待機しており、大きな机の上には原稿用紙の山と尖った鉛筆の束、特設電話が2台置かれていた。まさに大事件の取材体制であった。大森が殴り書きする原稿を、連絡速記員が電話口で次々と読み上げた。原稿を半分ほど書き上げた所で小西が更生館の金銭出納帳を持って戻って来た。

暴かれた死獄

斎藤社会部長の計略
“収容者に相次ぐ死”、”疑惑の岡田更生館にメス”。翌朝2月18日付の朝刊社会面に大きな見出しが踊った。大森と小西は朝早く起き、待ちに待った新聞を開いたが、記事を一読して失望した。岡田更生館関連の写真と記事が社会面の全面を埋める派手な扱いではあったものの、潜入取材には一切触れていなかったのである。紙面に扱われた記事は、放浪詩人の証言と、大森らが本社から潜入の許可を取るために一週間に渡って周辺から集めた情報を、本社で書き直して記事に纏めたものばかりであった。昨日大森と小西が旅籠に籠もって書き続けた原稿は一行も掲載されていなかった。大森は発作的に大阪本社に抗議の電話を入れた。

この事件の記事のために徹夜していた社会部長・斎藤栄一は、大森からの猛抗議に落ち着いて応えた。「ちょっと計略があるのや。県と国警と、朝日や地元紙の出方を見たろやないか。大森由良之助の登場は明日の朝刊やな。」

斎藤の仕掛けた罠は見事だった。毎日の報道を受けて岡山県知事・西岡広吉は当日、「証拠のない中傷記事には納得できない」と全面否定の会見を開き、朝日新聞は翌日、警察の旧来の見解を引き合いに出して、毎日のスクープに反論する記事を載せたのだ。

ライバル紙の沈黙
西岡知事はその朝起き抜けに毎日の社会面を読まされて憤激した。模範施設の誉れ高い岡田更生館が、悪逆無道の死獄の嫌疑を受けていたからだ。午前11時、西岡は知事室で特別記者会見を招集し、約30名の報道関係者が詰めかけた。大森も何食わぬ顔で記者団に紛れ込んだ。「今朝の新聞には全く納得しかねる。根拠もなく、ただ単に脱走者の訴えを頼りに書かれただけの記事は一方的であり、信憑性が無い。天下の大新聞が何故あのような記事を掲載したか理解に苦しむ。私は岡山県知事として、県立の施設であの記事にあるような非人道的な行為があるとは思えない。新聞を売らんがための捏造ではないか」。毎日の報道を完全に否定する知事の談話に、大森は闘志をみなぎらせて支局に戻った。夕刊はこの知事談話を大々的に報道した。

翌2月18日、毎日新聞朝刊は知事談話とライバル紙に「動かぬ証拠」を突きつけて反撃した。向井カメラマンが混乱に乗じて撮影した現場の証拠写真が大きく貼り付けられ、”本紙記者二名、館内に潜入”という大見出しが跳ね踊った。大森の”潜行体験記”は更生館で恐るべき人権蹂躙が行われている事を白日の下に晒け出し、帳簿を分析した小西の”経営の実態を衝く”という記事は多くの数字を上げながら、N館長が死亡した収容者の分まで配給と交付金を懐に入れていた事実を証明していた。「これでええやろう」斎藤は平然と言った。作戦を見事に的中させた男のふてぶてしい自信である。大森は電話を切り、斎藤から見てみるよう言われた他の全国紙の扱いを点検した。毎日のライバル紙である朝日は知事談話を肯定的に派手に扱って”岡山県警、逃亡者の訴えで警部補派遣、不正事実発見されず”との四段見出しの記事を掲載していた。「面白くなってきたぜ」と大森はつぶやいたが、朝日もそこは賢明な全国紙であり、毎日の潜入記事を読むと深追いして来なかった。翌朝から意識的にこの事件を紙面から抹殺してしまい、だんまりを決め込んだ。そしらぬ顔をして完全に報道を断つ態度をとったのである。

しかし、黙っていない存在があった。当の岡田更生館である。

岡田更生館による冤罪キャンペーン
岡田更生館当局は「大森、小西両記者の悪意ある報道」と、ビラやチラシを撒いて宣伝し徹底的に戦う姿勢を見せた。毎日新聞社側と更生館当局の泥仕合いは一週間ばかり続いたが、川又検事正がこの争いにストップをかけた。記者団を招集して『岡田更生館には自分も乗り込んだが、正に監獄部屋であった。警察当局の善処が望ましい』との特別談話を発表したのである。

検事正談話を受けて、遂に国警が捜査体制に入った。関係者の一斉逮捕に踏み切るべく、トラック数台を連ねて大石国警隊長以下総動員で岡田更生館へ向かった。

岡山支局には武田記者が第一報を持ち込み、大森らを乗せた2台の車が出発した。国警乗り出しの情報は更生館側にも入り、正面玄関には”親が子を叱って何故悪い?”、”愛情のムチを見誤るな!”、”大森・小西記者の大誤報!”といった内容のおびただしい数のプラカードや張り紙が出された。

「収容者側にも御用組合が出来ているらしいです」武田は顔を曇らせながら、更生館の様子を説明した。倉敷から2,30分北上した所で国警の車に追いついた。警察、県、報道機関等、三十数台の車が大行列を成して県道を北上していた。武田が言った。「国会の厚生委員会からも調査のために代議士がやって来るそうです」。岡田更生館事件は国会を動かすほどの全国的な事件になっていた。

関係者全員逮捕、そして起訴へ
車列は更生館前の道に停車し、大石国警隊長を先頭に捜査隊の制服・私服の巡査が次々と館内に乗り込んだ。さらに、赤い腕章を巻いた各社の記者、スピードグラフィックを引っ提げたカメラマン達が後に続いた。

更生館側は”会見場”を用意して待っていた。警察、報道陣、国会議員を相手に、いかに今回の報道が悪意ある虚偽であるかを説明するために周到に用意された会見である。本館2階の大広間には、200名余りの収容者がこざっぱりした洋服に着替えさせられて正座していた。捜査陣と記者団は収容者を囲むように四方の壁に沿って立ち並んだ。

壇上に立ったN館長が悠然と語り始めた。「親が子を叱るのは日本古来の伝統です。確かに私は君等を叩いたり、しごいたりしました。」「皆さん、私は本当に、新聞に書かれたような悪事を働いた事があるでしょうか?私は皆さんの親であり、先生なのです」「どうか皆さん、もし本当に、私が悪事を働いたと思う人があれば、今ここで、県や国のお役人の前で手を挙げて下さい!」館長は涙声になり、絶句した。会場は静まり返った。収容者はみな頭を垂れ、手を挙げる者は誰一人いなかった。

「国警隊長!」重苦しい沈黙を破って大森が声を上げると、会場の視線が一斉に彼に集まった。収容者たちの縋るような眼、それは常に虐げられて来た社会の最下層に生きる者たちの、ひ弱な眼であった。大森は大石隊長に館長の退場を要求すると、壇上に駆け上がった。

「皆さん、私の顔を覚えているでしょう、浮浪者としてここに入っていた者です。新聞記者です。皆さんを救うために命がけで潜入しました。今が最後のチャンスです、怖がったり強制されてはならない。」「虐待された人は手を挙げてください!坂本君、手を挙げてください!」後ろの方にいた収容者の中から、坂本が立ち上がり、さっと手を挙げて言った。「この人の言うことは本当です!」。続いてひとり、ふたりと手を挙げ始め、そして全員が手を挙げた。

夕刻、逮捕された指導員たちを満載した国警のトラックと、それを囲む車の列が岡田村から岡山に向かって県道を南下して行った

刑事裁判

1950年2月28日、岡山地裁で裁判が開かれ、N館長に業務上横領と私文書偽造で懲役1年執行猶予3年、岡山県会計課主事の男性が同罪で懲役1年執行猶予2年、岡田更生館指導員の男性が同罪で執行猶予3年、同僚が同罪で執行猶予2年の判決が下り、N館長と会計課主事の男性2名は控訴した。

施設としての問題点

収容能力を超えた過密収容。事件発生当時の収容者数は275名(内訳:男226名、女49名)。畳一畳当たり1.3名。
給食事情が良くない。事務費不足のため保護費の一部を事務費に流用したために給食費用が不足。
衛生状態が良くない。寝具の不足、入浴回数が非常に僅少、診療が不十分、清掃が不徹底、皮膚病や性病・結核患者が非常に多い。
部長、班長制度を設けたためにボス的関係が生じた。
監禁的処遇の下に虐待的行為さえ行われたこと。当時逃亡者は毎月平均5人強、毎亡者(原文ママ)が毎月4人弱。
収容者の素質にもよるが、管理指導者側にも難点があった。
場所が奧地過ぎるから授産上にも、就労上にも不利である。
敷地が狭く、相当の農耕地がないから勤労作業上にも、食糧補足上にも便宜がない。
地勢的還境がよくない。保健上、教化上、慰楽上適当でない。
建物、設備、共に不十分である。
参議院会議録情報より。

事件その後

県が主管する社会福祉施設で、人権はもとより人命までもが全く軽んじられた運営が行われ、結果として非常に多数の死者が出た本件は、県の福祉行政の面でも前例のない汚点を残す事となった。
岡山市内で浮浪者の収容に当たっていた県職員・荻野半麓は事件後、職を辞した。荻野は著書『浮浪児とともに』(1949年)の中で、収容者への暴力について「(統治手段として)この程度なら仕方がない」と考えていたと述懐、「良識の鈍っていた当時の自分をただ恥じる」と心情を吐露している。
岡田更生館事件は国会で幾度か取り上げられた。厚生事務次官・木村忠二郎は堤ツルヨの質問に次のように答弁している。
「岡田厚生館の問題につきましては、これが公の施設でありますることと、公の施設でおるにもかかわらず非常に設備が悪かったという点、これらにつきまして、われわれといたしましては非常に遺憾に存じておる次第でございます。また非常に恐縮いたしておる次第でございます。これはお手元に差上げました書類にもあります通り、定員以上に人を收容せざるを得ないという状況になりました結果、実際に入り得べき人以上の人を収容したという点が最も問題の点であろうと思います。新聞紙上には相当はげしく書いてあるのでありますが、実際に実情を調査いたした結果によりますれば、新聞紙に出ているほどのことはなかったのであります。お手元に配付いたしましたところが眞相でございまして、新聞紙上に取上げられたほどひどくはなかったのであります。しかしながらわれわれといたしましては、少くとも社会事業として運営いたしておりますものがあの状態であったということは、はなはだ遺憾に存ずるのであります。」
また、山下義信は質問の中で次の点を指摘している。
「この職員を見ますと、何もこういう施設に特別な何と言いますか、手腕家といいますか、そういうようなものが認められん。四人か五人の職員のうち三人まで巡査です。ここに出ている履歴を見ますと……。人物としても熱心でありましよう。信念もありましよう。巡査でも結構、何でも結構でありますが、誠に低級な者を使うておりますということは、これは争うことのできない事実です。全国的にすべてこの社会事業施設の、殊に都道府縣のああいう公営の館長とか、所長とか、院長とかいうものに極めて低級な者をこれに充てておるということは事実であります。(中略)これは余程しっかりした人物をあてがわなければならんということは、これは根本は人の問題になるのであります。(中略)看護婦でも資格が要るでしよう。保健婦でも免状が出るでしよう。それが重大な社会事業施設の長となる者に何の資格も要らない。昨日まで百姓をしていた者でも直ぐ乳児院長になれるということに行ったのでは、全國数千の施設が到底これは駄目であるということは誰にも分る。そういう資格の何か基準か、何か審査と言いますか、適格審査と言いますか、そういうものを考えているのでしょうか。」
事件後3ヶ月が経過した更生館の状況は以下の通り。
在館者96名、生活扶助費が1人1ケ月平均1,150円、逃亡者は1日平均1人、死亡者は8日に1人の割合。
食事は朝と夕食が雑炊、海軍食器1杯、米麦7勺。昼食が普通食で米麦1合2勺。
参議院議員・姫井伊介(無所属緑風会)「誰でも闇生活なしには生きられない今日、在館者は一般配給のみで闇買いはできないし、耕作地がないから、補足もつかず、配給主食の種類も平均化されていないから、食事事情は相変らずよろしくない。診療も不十分、病院に送ろうにも病院でも収容力がなく、患者を受入れてくれないことがある。管理のためには室長制度をとっている。監視は解いた、従って逃亡数は幾らか増して、地方的には不満の声があるらしく、岡山駅には浮浪者が増したと言われている。授産の成績は上がっていない。鼻緒、大工仕事、精米等。日雇い仕事も思わしくなく、働き口が少ない。現在のべ百十坪の収容室が新築中であり、浴場、洗濯場、炊事場の増築、既設建物の改造修理も行われているが、根本的に場所がよくないのであるから、徒らに貴重な金と物と力を泥中に投げ込むようなもので、とても十分な改善の期待はかけられない。給食、診療、授産、就労強化の便宜を増して、更に逃亡の防止に資するためには、いっそこの際適当な場所に移転、改築することこそ最も賢明、妥当な措置ではあるまいか。」
事件後、改組名称変更し岡山県吉備寮となるも、1955年(昭和30年)に廃止。昭和31年からは更生施設から救護施設に改組なったが昭和32年廃止。その後、跡地には民間の病院が一時期開設されたが閉鎖、現在は住宅地となっている。
小西記者は潜入取材後、壮絶な疥癬に罹った。毎日新聞社はこれを業務上公傷と見做し、手当を存分に出して山中温泉に行かせた。しかし小西は翌年、金閣寺放火事件の犯人に懺悔録を書かせようと毎日天丼を一週間差し入れ続けたが、その請求書をデスクに出して「国賊」と罵られ、大喧嘩の末に社会部からラジオ原稿の書き換え係に左遷された。

事件の記憶

千光寺東側の山林の中にひっそりと佇む慰霊碑と石版(2019年10月6日撮影)
命尊碑の傍らに立つ石版。「すぐる太平洋戦争は痛恨のきわみ」と碑文が刻まれている(2019年10月6日撮影)。

世間を震撼させた大事件であったが、現在、地元でも事件を知る人は少なくなっている。

1979年(昭和54年)に真備町が編纂した「真備町史」には、事件について一行も言及が無い。理由は不明である。

1988年(昭和63年)9月、亡くなった70人超の入所者を追悼しようと地元の元小学校教諭・加藤昌則氏が中心となり、有志16人で春の小川村というグループが結成された。犠牲者が焼かれ埋められた場所に命尊碑(いのちたっときひ)と刻まれた石碑を立て、彼岸と盆には慰霊の法要が行われて来た。しかし事件から70年の2019年現在、グループは大円寺(真備町辻田)の住職が1人で活動しているのみで、継承が望まれている

千光寺東側の山林の中にひっそりと佇む慰霊碑と石版