美術の学生を教えていて、近年、怖いなと思うのは、道徳や倫理的判断の話が、美的判断と齟齬をきたすような場合に、安易に、非常に安易に、「でも私はナニナニが好きです」とか「ナニナニは美しいです」とか言ってしまうこと。美は正義ではないので、美的判断が倫理的判断と衝突する場合には、
— masako toda (@kumamuta) 2019年12月8日
先生としてはアイロニーをそこに感じて欲しいわけ。倫理的に間違ったものが美しく見えるということを、矛盾というか、複雑なまま理解してほしい。感性と思想を鍛えて欲しい。「好きです!」「美しいです!」それだけで済むものなんて一つもありませんよ。
— masako toda (@kumamuta) 2019年12月8日
「でも私はナニナニが好きです」という主観的判断なら問題ないだろう、とその言葉に逃げる学生も多い。でもね、それさえね。倫理的に間違ったものに「好き」という支持を与えることなのよ。
それでも、倫理的には誤った作品が美しく見えることはある。その逆もね。そこをアイロニーとして感じること。
— masako toda (@kumamuta) 2019年12月8日
加えて、君たちに結論を出す権利があるわけじゃないのよ、ってことも覚えておいて。君たちは、その矛盾を痛みを持って見守る、いわゆる「モヤモヤする」状態かもしれないが、それを「スッキリ!」させるために、好きだの嫌いだのという結論を簡単に言っていいなんて資格はないのですよ。
— masako toda (@kumamuta) 2019年12月8日
「結局のところカッコイイかカッコ悪いかしかない」とか「好き嫌いがあるだけ」とかそういうことを言う人が多いけれどそれと近いかなぁと思いました。語る力を持たずに、反応を共有するようなコミュニケーションばかりになると怖いです。
— よぞ (@YOZO_A) 2019年12月8日
それはわかりますね。作品やアーティストへの批判を聞くとなぜか自分が批判されているように捉えてしまう。距離感がないということだと思います。
もっと言うと一人一人が表現者のはずなのに表現の部分を既成のアーティストに委託してしまっているからそういうことになるのかもしれません。
— よぞ (@YOZO_A) 2019年12月8日
素晴らしい見解だと思います。美術畑の方からこう言った意見が出るのが何と言っても嬉しい。私は高性能ジェット戦闘機をみると美しいと感じますがそれとともに鳥肌が立つような恐ろしさを同時に感じます。そして自分の子どもにはたびたびその話をし、なぜ美しく感じるのかいつも疑問に思っています。
— usako (@usakojpn) 2019年12月8日
同感です。美的価値は、倫理的価値より優位ではないです。
倫理は人が生きる規範ですから、それなしで人は進めません。人が進めない時に、新たに美的価値が生まれる事はないです。— 上田丘 (@hillupperpaddy) 2019年12月8日
倫理は「欲望のままに人を不幸にする」ことを止める為に発達してきたもの。
どんなに美しくとも、どんなに好きでも他人を不幸にする権利はない。
— S天河遺跡(赤い天の川の遺跡群) (@amagawaiseki) 2019年12月8日
核兵器の実験で、それが爆発してこの世のものとも思えない不思議な光を発する映像を見て、それを「美しいと思ってしまった」という人の記述を思い出しました。彼は苦しかろうと思う。記事の内容全部は忘れてしまったけれど、そこだけ覚えている。彼はその思いを自分の中でどのように扱ったのだろう。
— SOYOKAZE (@amanoiwakura) 2019年12月8日
「戦争には反対だけど軍用機や軍用車両、兵器は格好いいから好き!」というのもアリだと思うのです…(なおその筆頭格は宮崎駿の模様)
— C62 48@原町田グランベリーパーク???? (@C62482) 2019年12月8日
宮沢賢治の作品には「自己犠牲」が多く、彼は恐らく「誰かの幸せのために自己犠牲することは自分の幸せ」だから「正しい」と感じていたはずですが、友人が溺れた生徒を助けて亡くなった時期の後、『銀河鉄道の夜』の内容を改稿し、自己犠牲の全肯定部分を消しました。確かに、その葛藤に芸術を感じます
— ←3Dスマホ音ゲー『歌マクロス』が今来てる!@メイファ (@UtaMacross_LOVE) 2019年12月8日
◯◯が好きです、てのはファンの感想としては正しいけど、プロ同士の会話ではイマイチ機能しないワードなのではないかと。私もなるべく仕事の場では言わないように気をつけてます。
— ゆきの (@4gatsunosakana) 2019年12月8日